6.東京のドテを歩いてみる
江戸の町は土手が多かった。 その理由は川や堀が多かったからだ。
土手をカタカナで「ドテ」と書くと少しエロいかんじがする。 女性の恥丘のことを昔からドテという。 これが盛り上がっているとモリマンなどと言われたりするわけだが、ドテ高の女性は名器だといわれることもあるが、その真偽のほどはよくわからない。 あ、そんなことよりも今回の散歩は土手を歩く。 スタート地点は、東京メトロの日比谷線三ノ輪駅。 ここから吉原方面へ行く道があるのだが、これがまさに「土手通り」である。 かつてここには川が流れ、土手があったわけだが、いまは川も土手もなく、単なる道になっている。
吉原というのは、昔の遊郭である。 今もソープランドが立ち並ぶ一帯で、他の地域とは少し異なっている。 この土手通りを挟んで吉原と反対側にあるのが山谷地域である。 昔ほどではないが、このあたりにはドヤと呼ばれる安い木賃宿が建ち並び、労務者たちも多く暮らしている。
今も「吉原大門」という交差点がある。 かつての吉原にはここからしか出入りができなかった。 土手から橋を渡り、吉原に入る。 大門側は川だったが、あとの三方はお歯黒ドブという溝が巡らされ、その周辺は田んぼであった。 溝といっても飛び越えることはできなかったようだ。 つまり吉原は隔離された場所であったのだ。 この土手通りには、今も「土手の○○」という屋号の店が多く残っているが、その代表が『土手の伊勢屋』であろう。 天丼のお店として有名で、いつも行列ができている。 実際ここの天丼は実に旨い。
創業は明治二十二年。 その頃はまだ吉原が遊郭として存在していた。 この土手の伊勢屋さんの周辺には古いお店が多く、戦前の建物がそのまま残っている。 それは第二次大戦で空襲の被害を受けなかったからだ。 土手の伊勢屋さんの店の造りもおもしろい。 今は中で食べるだけだが、よく見るとテイクアウトの窓口のようなものが残っている。 たぶん、吉原のお店へのテイクアウトをやっていたのではなかろうか。
穴子丼は丼からはみ出すほどの天ぷらが大きい。 サクッとした衣もいい。 天丼を食べ、さらに土手通りを進もう。
地方橋、紙洗橋という橋の名前を残した交差点がある。 紙洗橋というのは、たぶんここに紙の製造業者がここにあって、紙を洗っていたのだろう。 古今亭志ん生の落語によれば、「冷やかし」というのは、最初は紙業者のことをさしていたのだそうだ。 すなわち紙を作る工程で、水に濡れた紙を乾かす、すなわち冷やかす工程があって、これには時間がかかったそうだ。 その時間、職人たちは何もすることがないので、吉原を見て回る。 客ではないから花魁たちの間で「あれは冷やかしだよ」なんていうふうに言ったのだそうだ。 今でも買わずに見て回るだけの人のことを冷やかしというのはそこから生まれたらしい。 本当かどうかわからないが、ありそうな話である。 そんなことを考えて歩いていると、いつしか住居表示が浅草五丁目になり、通りの名前も土手通りから馬道通りとなる。 浅草駅はすぐそこだ。
土手の伊勢屋 (どてのいせや)
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