5.下痢の罰

周りを苦しめながら好き勝手してきた悪役が、最後には罰が当たって不運に見舞われる展開のアニメやドラマをたくさん見て育ってきたのだろうか、私は「罰が当たる」ということを信じ、そのことに怯えている。

今までたくさん悪いことをしてきた。

こうした異様な内面であり、日々の生活が送りづらいということも、私が与えられた罰だと思っている。

せめて罰の内容が、定食屋のように5種類くらいある中から選ぶことができたならいいのだが。

私が一番下されたくない罰は、「下す」だけに、やはり下痢である。

 

過去にした悪いことは変えられないから、今からでもと思い、今の私は下痢の罰が当たらないように、日々努力を重ねているのだ。

やはり下痢ということで、食べ物に関しての努力が一番大きいように思える。

手を合わせて「いただきます」と「ごちそうさま」を言うのは下痢の罰のためではないが、そのときに食べたものの姿形を頭の中でひとつずつ蘇らせ、各料理に対してお礼を言うようにしているのは、下痢の罰が当たりたくないからである。

今食べていたものなのに、すぐに蘇ってこないことがけっこうあり、長い間目を閉じて、手を合わせているのだが、その間に同居人が「ごちそうさま」を済ませ、テーブルの上の食器を片づけ始める。

私がやっと全ての料理を思い出し、合わせた手を離し、目を開けると、そこに水が見えるのだ。

悟り的な幻覚ウォーターではない。

今まで飲んでいた水だ。

私は水を忘れていたことを申し訳なく思う。

そして再び手を合わせる。

ここだけの話、水よりも肉やパンなどの方が味があって美味しく、好きなのである。

ここから先は水も聞いていい、むしろ聞いてほしい話だ。

しかし水がなければ私は、消化に対する不安が生まれるだろう。

その不安を失くし、安心しながら食事をさせてくれるのが水なのだ。

私はそんな水のために再び手を合わせ、目を閉じて「ごちそうさまでした」という。

これがいつもの流れである。

私の「ごちそうさま」が終わる頃には、同居人がテーブルの上の食器を全て流しへ運んでいてくれていて、納豆のパックなどのゴミもゴミ袋へ移動している。

私はいつも、私はごはんの後片付けが面倒くさくてやりたくないから、わざと「ごちそうさま」を長めにやっているんじゃないかと同居人に思われているのではないかと不安になる。

しかしごちそうさまを短縮することはできないのだ。

下痢の罰が当たるかもしれないから。

しかししかし、ずっと同居人ひとりだけに後片付けをさせているのも罰当たりなことであり、どのみち私は下痢の罰が当たるのではないだろうか。

第五回イラスト

 

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