9.インパール作戦とインド独立

~8月15日は独立記念日~

日本政府は「英国インド兵に対する謀略宣伝・切り崩し工作」をインド国民軍に期待しますが、ボースはインド人の手でインドを解放しようとします。

インパール作戦では6,000名のインド国民軍が日本軍と肩を並べて戦いました。

 

当時の日本は米国の無制限潜水艦作戦により海上輸送が破綻しています。

このため人力で12日分の兵站(米10kg、缶詰36個、銃、弾、手榴弾、地雷など合計50kg以上)を携行し300kmの山道を行軍してインドに侵攻しました。

88日間インパールを包囲するも、弾と食糧不足のため作戦は失敗します。

英印軍の死傷者は1万8千人、日印軍も戦場での損耗は同数でしたが、300kmの後退時に追撃を受け日印軍は壊滅しました。

インパールに進行したインド国民軍のうち、ビルマに戻れたのは2,600名、内2,000名は直ちに入院が必要でした。

 

インパール作戦後の日本軍にかつての栄光はありません。

しかしボースは「インパールの敗戦にあってなお日本軍と肩を組み提携を続けることに疑問を持つ向きもあるであろう。しかし、今日本軍を裏切れば、われわれは景気の良いときだけ日本軍と手を組んだというそしりを受ける。武装闘争を続けることが、英印軍にわれわれの不退転の決意を悟らせる」と、英軍の宣伝工作に惑わされず、飢餓とマラリアに苦しみながら共に行動しました。

 

日本の指揮官、古谷朔郎大佐は人格が高潔であり、インド国民軍サイガル中佐の信頼を勝ち得ます。

指揮官の気持ちは両軍に伝わり、多くの兵隊は「日本の勝利なくしてインドの独立なし」と同じ目的のために戦い続けました。

 

インド独立の火は日本の敗戦後も燃え続けます。

英国はインド国民軍指導層を裁判にかけ、厳罰を与えて見せしめとし、支配を再び確固たるものにしようとします。

しかし、裁判は筋書き通りには進まず「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者であり、即時解放するべきである」と国民が決起します。

 

英国は裁判で反逆罪を罪状にします。

「そもそも、インド国民軍なるものは、マレー戦線において脱走した捕虜である。彼らは敵である日本軍の指揮下に入り、祖国に反乱して、戦場において殺人、強盗、略奪を働いたものであり、その罪状は明白であり、反乱罪の適用を受けるべきである。日本の傀儡である」

 

インド側は「インド国民軍は、英国のインド支配に抗して反乱したものであり、したがって、れっきとした交戦団体である。よって、戦場における行動は、交戦団体として当然とるべき正当行為であって、これを殺人とか強盗とかいうのは英国の詭弁のほか何ものでもない。ボースのインド国民軍の仮政府樹立の際、日本は国際法上の政府承認を正式に取っており、外国からも承認されていた。ボースの仮政府は、国際法上の完全なる人格者として成立したのである。その時点で、インド国民軍所属の将校が、英国国王に対する忠誠の誓約は自然消滅している。したがって、検事がわが被告に課そうとしている反逆罪は、法的に構成の理由を失っている。なお、仮政府を傀儡というが、日本から仮政府に対して正式に公使を派遣している事実は、仮政府の独立を明白にしているであろう」と反論します。

 

各地でデモが起こり「インド国民軍の英雄を救え」の大合唱が響き渡ります。

英国海軍に所属していたインド人乗組員の反乱が相次ぎ、英軍の艦船20隻が奪われる事態に発展します。

 

このため英国は植民地の維持を断念しますが、チャンドラ・ボース系のインド国民軍に政権を渡さず、非暴力運動を続けていたガンジーの国民会議系に政権を移譲しました。

 

1947年8月15日、インドは独立します。

インパール作戦から3年後、ボースの死から2年後のことでした。

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