第5話チームメイト

1993年。

Jリーグ開幕の年、そして、ドーハの悲劇が起きた年として記録されるこの年。

もう一つのイベントとして、日本でサッカーU-17世界選手権が開催されたことを覚えていますか。

この舞台で、当時チームの絶対的エースだった財前宣之選手、そしてその数年後ヨーロッパに羽ばたくこととなる中田英寿選手らの活躍により、U-17日本代表は見事ベスト8の好成績を収めました。

当時、最も注目を集めていたのはエースナンバー10の財前選手であり、その技術は中田選手も認めるところだったそうです。

しかし、その後財前選手を次々と襲った怪我や挫折、一方の中田選手の周到な準備によるキャリアの積み重ねもあり、数年のうちに立ち位置は逆転することとなります。

最終的に、中田選手は海外での華々しい活躍とワールドカップ3回出場のキャリアを残し、29歳で引退。

かたや財前選手は、若い頃の期待ほど大きな結果を残すことのないままJ2リーグなどを中心にプレーし、35歳のときにタイリーグでそのキャリアを終えています。

年々中田選手の背中が遠くなる状況を、財前選手はいったいどのような思いで見ていたのでしょうか。

話変わって1991年春。

新中1の私は父の転勤の関係でサッカーどころ埼玉県浦和市(現さいたま市)から広島に移り、中学校のサッカー部に入りました。

小学6年時には、全国的な知名度を誇る浦和市選抜(FC浦和)の最終候補まで残ったこともあり、技術にはちょっと自信を持っていました。

「ここの部活でも、1年生から試合に出られるようになってやる」

転校生としてそして新1年生として周囲の様子を伺いながらも、内心そんな野心を抱いていました。

しかし、ここで、どうしても勝てない同期と出会うことになります。

成績優秀(噂では、10段階評価のオール10を取ったとか取らなかったとか!?)、スポーツ万能(中学1年生からすでに50メートル走6秒台!!)のチームメイト。

中学1年時こそ、同じように1年生ながら3年生に混じってレギュラーになったり、一緒に広島市選抜候補の練習に参加したりして、技術だけなら自分のほうが勝っていると自負していたものの、私が選抜のメンバーに漏れ、彼が選ばれてからというもの、その実力差はみるみる広がっていくのがおさな心に分かりました。

自分の技術に対する自信も、時を同じくして失われていきました。

残ったのは、劣等感。そして、言い訳の数々。

「あいつは体も大きいし、足も速いから、俺はそもそもハンデを負っている」
「付きっきりで指導するコーチも、えこひいきじゃないのか」
「俺の本気はまだこんなもんじゃない。本気さえ出せば……」

そんなことを思いながら、大して練習をしない自分を正当化していました。
(卓越した才能があり、かつ努力を重ねていたにもかかわらず不運に泣かされた財前選手とは大違いですね……)

当時は、私もその同期も、どちらかというと受け身なところがあり、来るもの拒まずなスタイル同士ということから、私たちふたりが直接コミュニケーションを取り合うシーンは極めて限られていました。

加えて、彼は、市選抜を皮切りに、県選抜、中国地区の選抜へとどんどんステップアップしていきました。

3年の部活引退後は、クラブチームに在籍して全国大会に出場したり、海外遠征したりするなど、物理的にも心理的にも距離感は広がるばかり。

とはいえ、今思えば私はそんな距離感に少しホッとしていたのかもしれません。

これで実力差を毎日見せつけられずに済む。でも、いつか俺にもチャンスが来るはずだ。

しかし、土日もサッカーに捧げ日々目の前のことに全力で取り組む同期に対して、他の友人とスーパーファミコンのサッカーゲームで休日を満喫しているような選手にチャンスなどやってくるはずもありません。

私の中学サッカーは1年生から試合に出ていたにもかかわらず「公式戦通算2得点」というあまりにも寂しい成績のうち幕を閉じました。

そして、私は半年間の受験勉強の後、東京の高校に進学することになり、中学3年生の春、広島を離れることになりました。もちろんサッカー漬けの同期と、個別に連絡を取り合うこともありませんでした。

ところが、卒業式を終え、チームメンバーともひとしきりお別れをし、あと数日で広島を離れるというタイミングで、当時の私にとって信じられない出来事が起こります。

なんと、それまで自分から話しかけてくることのほとんどなかった同期からとある夜、自宅に電話がかかって来たのです。

電話を取り次ぐ母すらも彼からの連絡に驚いていました。

そして、私たちは、たどたどしくも、それこそ中学3年間のコミュニケーション量を超えるくらいの会話を交わしたのです。

それぞれの受験のこと。進学する高校のこと。チームメンバーたちのこと。これからのこと。

1時間近く話したでしょうか。最後に私たちは、全国高校サッカー選手権大会でまた再会したいね、といった口約束をし、その電話を切りました。

電話を切った後、私はこみ上げてくるうれしさに加えて、後悔を感じずにはいられませんでした。

俺は3年間、何をしていたんだろう。こんなに身近に自分のことやチームメンバーのことを考えてくれていた素晴らしい仲間がいたのに、サッカーの技術の勝ち負けにこだわるがあまり、ちっとも歩み寄ることをしなかった…。

それなのに、あいつは強豪校への進学前の準備で忙しいはずなのに、わざわざ電話をしてきてくれた。

本当の完敗だ。これからはあいつの活躍を応援していこう。

そんなふうに思ったことを記憶しています。

同期の名は、「柴田直治」といいます。

その後、高校の部活を早々とリタイアした私とは正反対に、広島の強豪校で高校サッカー選手権目指して研鑽を積んでいくナオジは、財前氏や中田氏が活躍したU-17世界選手権の次の世代のU-17日本代表候補としても活躍。

あの小野伸二選手や高原直泰選手、稲本潤一選手たちとも一緒にプレーするなど、もはや私の手の届かない遠い存在になっていきました。でも、もう悔しがったりはしません。私はそのとき、彼の純粋なファンの一人でした。

そして、大学時以降は、同じ中学のチームメイトの声掛けもあり、休み期間などにちょくちょく酒を酌み交わす機会も生まれてきました。

さすがに私も彼も思春期を経て、「あの頃のよそよそしさは何だったんだろう」と思うくらいバカ話もできるようになりました。

プロの注目もある中、大学サッカーで活躍した後、ナオジはJFLソニー仙台へ。怪我や仕事との両立に悩みながらも、数年プレーし、20代中盤で現役を引退。

ソニーにおける国内外での勤務後、今は別の外資系企業でバリバリやっています。

若い頃から海外遠征などで世界に触れていく中で、勤務先などもグローバルに活躍できる環境を選んできたそうです。

加えて、私が6年前から続けている東日本大震災の復興応援活動も応援してくれており、チャリティTシャツの購入支援を募ったときには、「何枚でも協力するよ」と言ってくれるなど、千葉と神戸とで、交流は今も続いています。

このブログへの記事掲載をきっかけに1児の父である彼に、「サッカーをやってきた経験の中で、父親として息子に伝えたいこと」を聞いてみると、こんな答えが返ってきました。

「父親として息子に伝えたいのは、好きなことを続けることの大切さかな。

ただ続けるのではなく、高い夢や目標を持って、身近な目標を設定して、考えて工夫して取り組むこと。何でもいいから、好きなことを続けることで力がつき、他のことにも応用できるようになるということを自分はサッカーから学んだから。

それくらいのめりこめることを見つける手助けができればいいなと考えているし、もちろん自分の経験を必要としてくれるのなら、子どもの悩みに対しても相談に乗ってあげたいよね」

とにかく一つひとつ目の前のことに全力を尽くし、ステップアップしてきた彼らしい言葉です。

財前氏と中田氏は、昨年とあるテレビ番組で当時のお互いを振り返り、そして今進んでいるそれぞれのセカンドキャリアを認め合っていました。

彼らほどの高いレベルでの認め合いとはいきませんが、私自身、少しでもナオジと肩を並べられるよう、ようやく目の前のことに全力で立ち向かえるようになってきたように思います。

皆さんにもきっと、同じ時間を過ごした、同じ目標に向かって取り組んだ仲間がいるはずです。そして、その関係性こそが何よりの財産のはずです。

最後に、ナオジ、そして、勝負をすぐに投げていた当時の自分へメッセージを送ります。

「サッカーの次は父親として、これからもお互い切磋琢磨していこう。今度こそ俺、諦めないよ」

(了)

 

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