3.二・二六事件の港区、千代田区を歩く

前回の四谷、荻窪に続き、今回は二・二六事件の中心地ともいえる港区、千代田区を歩く。

歩いてみてわかるのは、二・二六事件はとても狭い範囲で起こったということ。

関連のある施設をぐるりと歩くだけだと、半日もかからない。

 

というわけで、地下鉄に乗って、六本木に向かった。

東京ミッドタウンがある場所は以前、防衛庁(今の防衛省)があったところだ。

事件の日、この場所に歩兵第一連隊の駐屯地があった。

 

僕は八〇年代に上京し、一年ほど乃木坂にある小さな出版社で働いていたので、防衛庁本庁があったころのことはよく知っている。

六本木駅の7番出口あたりに防衛庁本庁の入り口があり、外苑東通り沿いにけっこう高い塀があった。

ランチを食べるときは、たいていこの塀沿いを六本木方向へ歩いた。

六本木通りに六本木食堂という安い食堂があって、そこへよく行っていたな。

残念ながら今はもうない。

あの当時は、六本木の様な繁華な場所でも昔ながらの大衆食堂がまだ残っていたが、今探してもなかなかそういうのは見つからない。

なんてことを考えていると腹が減ってきた。

 

ちょうど昼どきだ。どこかに安い店があったら入ろうと、乃木神社から赤坂方面へ坂をくだる。

 

・赤坂の高橋是清邸跡

赤坂駅の手前にそびえたつTBSの建物が見えてきた。

このあたりにかつては近衛歩兵第三連隊の駐屯地があった。

ここから高橋是清邸まで将兵は歩いて向かったのだ。

 

その前に腹ごしらえをしよう。

店を探したが、どこも驚くほど高い。

千円越えだ。まいったなぁ。

オール千円という定食屋があって、それが安く感じるほどだ。

 

実はいま金欠で、なけなしの千円札1枚をポケットに入れてきたのだ。

その千円札も今はもうない。

六本木駅でPASMOの残高が足らず、17円を千円札で支払ったからだ。

帰りの電車賃のことを考えるとランチは500円くらいで押さえたいところだけれど、そんな店は見当たらない。

 

サラリーマンやOLさんたちの多くはどこから買ってきたのか、弁当を持って歩いている。

弁当屋はどこにあるのか、探しながら高橋是清翁公園へ向かう。

 

下って再び上る薬研(やげん)坂というけっこう急な坂がある。

薬研というのは漢方薬をつくるとき、薬草などを細かくする器具で、細長い船の様な形の上に円盤のようなものをゴロゴロするやつで、その船の部分にこの坂が似ているということで、この坂の名前となった。

 

事件当日の早朝、雪の積もったなかをフル装備で歩く兵隊さんも大変だっただろう。

坂を上がれば246、青山通りだ。

ここを左折、渋谷方向へ歩くと高橋是清翁記念公園がある。

この公園、当時の高橋是清邸の跡地となる。

かなり広い土地だが、それでも246の拡幅工事で当時よりは狭くなっているそうだ。

ほぼ当時のままの姿で残されているという日本庭園を目に焼き付けて、都立小金井公園にある江戸東京たてもの園に行くことをおすすめする。

高橋是清邸が当時のままの移築されているのだ。

暗殺された二階の部屋も残されている。その二階の部屋から見えたのがこの庭園の景色だ。

 

再び246を赤坂見附駅方向へ歩き、外堀通りへ。プルデンシャルタワーが見えてきた。

ここはかつて226事件のときに反乱軍がたてこもった日本料亭『幸楽』があった場所だ。

幸楽は、太平洋戦争中、撃墜されたB29が直撃して、消失。

戦後はアメリカ軍専用のナイトクラブ『ラテンクォーター』が建てられた。

しかし、その建物も消失し、その後、この場所にはホテルニュージャパンが建った。

地下には『ニューラテンクォーター』がオープンする。

1963年に力道山が刺されたことでも有名な高級ナイトクラブだ。

そして、ホテルニュージャパンは1982年に火災を起こし、33名の宿泊客が亡くなるという大惨事となった。

 

その後も建物はずっと残り、千代田生命が再建させようとするも、経営破たんし、やっと今のプルデンシャルタワーになったのが2002年のことだ。

 

その先にある山王タワーは、かつて『山王ホテル』があった場所だ。

当時のニュース写真はこのホテルの前で撮られたものが多い。

山王ホテルと書かれている大きな看板と兵士と雪が印象的だ。

 

・首相官邸から戒厳令司令部へ

首相官邸の坂の下まできた。

ここをのぼると、もう飲食店はしばらくない。

ラーメン屋があったので、入ってみようかと思ったが、スマホで検索。

実は赤坂でもラーメン店に入ったのだが、いちばん安いのが800円で、これは無理だと出てしまった。

バツが悪かった。

ここのラーメン店の情報をスマホで見れば、千円以上のものばかり。

斜め前に喫茶店があった。

表にメニューが出ている。

ナポリタンは千円だった。

 

そういえば、反乱軍の兵士たちの食事もけっこう大変だったようだ。

先ほどの日本料亭の幸楽には背広の男がやってきて、国会議事堂の兵士は何も食べていないので、弁当を作ってほしいと八十円渡したそうだが、無理だと幸楽側は断った。

その後、米3俵の差し入れがあり、それで弁当を作ったそうだ。

 

まあ、僕も仕方なく、空腹のまま首相官邸の脇の坂を上る。警察官がいて、その横を通るとどこへ行くのかと尋ねられる。

 

反乱軍は首相官邸を襲撃。

首相秘書官で岡田の義理の弟である松尾伝蔵が岡田と間違えられて殺害された。

そのため首相は押し入れに隠れて難を逃れた。

 

国会議事堂が見えてきた。

事件のあった年に完成した国会議事堂にも反乱軍がこもっていた。

二七日の午後四時には東京湾のお台場沖に連合艦隊の主力が到着。

戦艦長門の主砲の照準を国会議事堂に合わせられていたそうだ。

 

国会議事堂から三宅坂にかけては、陸軍の施設がいくつかあった。

憲政記念館がある場所はかつて陸軍省があったところだ。

 

それにしてもなにもない場所、ただただ警察車両と警察官がいる。

皇居につきあたり、お濠端の道を半蔵門方面へ歩く。

左側に英国大使館を見ながらその先に安藤大尉が率いる歩兵第三連隊が襲った鈴木貫太郎侍従長邸がある。

鈴木貫太郎は4発の銃弾を受けながらも夫人がとどめだけは待ってくれと懇願し、安藤大尉も了承し、結果、生き延びることができた。

鈴木は終戦の年の総理大臣になっている。

 

ここまで、反乱軍の動きを見てきたが、靖国神社を左手に見ながら進むと九段下になる。

ここにある九段会館はかつて軍人会館と呼ばれていた建物で戒厳司令部だった場所だ。『戒厳司令部』という看板が掲げられ、その前に銃を持った兵隊が立っている写真で有名な場所だ。

1928年(昭和3年)に建てられ、今もまだある。

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鎮圧部隊は、反乱軍をぐるりと取り囲むように配置され、「下士官に告ぐ」という原隊に帰るように促すビラやラジオ放送が行われ、事件は終息に向かう。

29日には、兵隊は原隊に戻り、青年将校たちも投降し、事件は終わった。

 

さて、九段下から神保町へ歩くと、吉野家の看板が見えてきた。

なんだかホッとする。

牛丼並を380円でいただく。

地下鉄神保町駅へ向かい、PASMOへ200円ほどチャージして、自宅へ向かった。

 

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