2. 二・二六事件の四谷、荻窪を歩く
歴史の痕跡を探して歩くという散歩のジャンルがある。 そんなマニアの間でけっこう人気があるのが二・二六事件の現場を歩くコースだろう。 この季節になると、めぐってみたくなる。 というわけで、今回と次回は、二・二六事件の現場を歩こうと思っている。
二・二六事件の現場といえば赤坂、乃木坂、六本木あたりの陸軍関連の施設を思い浮かべる人も多いかと思う。 だが、それは次回にして、今回は斎藤実(まこと)内大臣邸のあった四谷と渡邉錠太郎教育総監邸のあった荻窪を歩く。
たいていの人は二・二六事件をご存じだろうが、ざっくり説明しておくと、1931年(昭和11年)の2月26日未明、陸軍の青年将校たちが下士官1483名を率いて起こしたクーデター未遂事件だ。
僕にとって教科書の中にある歴史のひとこまにしか思っていなかったのだけれど、それがグッと身近なものになったのは、大学生の時に見たNHKのドキュメンタリーを見てからだ。 その内容は事件にかかわった人たちの電話を傍受したものが紹介されたのだ。 それまで写真やニュース映像でしか見たことがなかった二・二六事件だけれど、当事者たちの肉声を聞くことで、リアルに思えてきたものだ。
ネットで調べたらこの番組の放送は1979年(昭和54年)だった。
・四谷の斎藤内大臣邸跡大学時代は大阪に住んでいて、その後上京して最初に住んだのが荻窪だった。 その後、何度か引っ越しをして、1995年から四谷に住んだ。 住所は新宿区若葉で、 近所に『珍萬』(新宿区若葉3-1)という素敵な名前の町中華があって、そこへよく行った。 女将と少し話すようになったとき、ここはどういう土地柄か聞いたことがある。
「このあたりは鍋底のような場所で、昔は雨が降ると水が溜まったようですよ。江戸時代は貧民窟でね、役人も入れなかったそうで、そのため犯罪者が潜り込むようなところだったとか」 と、言っていた。もちろんそのころはすでにそんな面影などまったくない普通の住宅街だった。
訪問するたびにそんな会話をしていたのだけれど、ある時、女将が 「ほら、そこのさ」 と、女将が指差しながら 「斎藤さんのお宅、二・二六事件に機関銃で撃たれたのよね」 と、気の毒そうに、そしてまるで昨日の出来事のように話したのをよく覚えている。
そんなわけで、久しぶりに四谷駅にやってきた。 電車賃は上野駅からJRで165円。 四谷口から新宿通りをすぐに左折し、南へ。 学習院初等科のところを右、西に行けば、有名なフレンチレストラン、『オテル・ドゥ・ミクニ』が見えてくる。
かつて、新宿区若葉に住んでいたときに、駅への道でよく通っていた懐かしい道だ。 僕が住んでいたのはまさに『珍萬』の女将さんが言う鍋底のあたりで、坂を下ったあたり。 途中に鉄砲坂という坂があるのだけれど、新宿区の説明板がある。それによれば、江戸時代このあたりに御持筒組(おもちつつぐみ)の屋敷あってあったそうだ。 御持筒組とは鉄砲隊のことで、屋敷内でよく鉄砲の練習が行われていたのでそれが坂の中江になったそうだ。
この鉄砲坂に隣接しているのが斎藤内大臣の屋敷になる。 今回久しぶりに訪れたけれど、けっこう広い敷地の屋敷だったことがわかる。
・坂を上がった右側のマンションあたりが斎藤実内大臣邸跡当時の住所は東京市四谷区仲町3丁目44番。 今の住所でいえば、新宿区若葉1-21番となっている。 この写真のあたりが正門で裏門は崖だ。 午前五時ごろ、兵員一五〇名ほどで取り囲み、軽機関銃などで、斎藤実内大臣を撃ち、即死だった。
斎藤邸から兵員約50名がトラックに乗り、荻窪へ向かう。 僕は電車で行くことにした。 四谷駅から荻窪駅へ、地下鉄で行こうかJRで行こうか迷ったけれど、地下鉄のほうが安いので丸の内線に乗りこんだ。 電車賃は200円。
・荻窪の渡辺邸跡へ荻窪には井伏鱒二が住んでいて、『荻窪風土記』(新潮文庫)には二・二六事件当日のことが書かれている。 朝、新聞のきた音で目を覚ました井伏は新聞を取りに行ったときに花火の音が聞こえたと思ったんだそうだ。 マーケットで安売りをするときは花火をあげるらしいのだが、この日は朝、早くから安売りをするんだなぁと思いながら二度寝した。 たぶんその音が反乱軍の機関銃の音だったのだろう。
井伏鱒二が住んでいたのは、東京府多摩郡井荻村字下井草1810だ。 今の住所でいえば、杉並区清水1-17となる。
荻窪駅北口から青梅街道を環八との交差点の四面道方向へ歩く。 10分ほどでかつて井伏鱒二が住んでいたあたりへ出る。
二度寝した井伏は昼過ぎに起き、銭湯へ行った。 そこで、人々が二・二六事件のことを話していて、井伏は渡辺錠太郎教育総監が反乱軍に庭から機関銃で撃たれて、亡くなったことを知る。 銭湯では客同士がいろいろな話をしていた。 渡辺邸の近所の八百屋の女将が、機関銃を据え付けている中尉だか中佐に「きょうは朝から演習ですか?」と聞いたら「ばか。こら危ないぞ、退(ど)け」と怒られたというような話を聞いている。
なんだか生々しい近所の人たちのその日の話だ。 実際、井伏の家から渡辺邸まで歩いて一〇分ほどだ。 では、ちょっと歩いてみよう。 時間が経過しても、その距離感は同じだというのがなんとも楽しい。
環状八号へ出たところに『ことぶき食堂』(杉並区桃井1-13-16)という町中華があった。 立て看板に創業1956年とある。 昭和31年だ。 ということは、二・二六事件よりはあとだが、井伏鱒二が住んでいた時期に店はやっている。 思わず暖簾をくぐった。 ラーメンをいただく。 おお、荻窪ラーメンってかんじの魚介の味がするぞ。 うまいねぇ。 けっこう高齢のご夫婦でやっていらっしゃるが、初代ではなさそうだ。 聞けば、ご主人のお母様が創業されたのだそうだ。 ラーメンは創業のころからこの味なのだとか。 値段は600円。井伏鱒二はお客で来ませんでしたかと聞けば、「来たことはないね。歩いているのは何度も見たけどね」とのこと。 なるほど、井伏鱒二は1993年(平成5年)、95歳で亡くなるまで荻窪に住んだ。
環状八号をJRの線路方面へ歩くと、光明院というお寺があり、その裏に渡辺教育総監の邸宅はあった。 事件当時の住所は杉並区上荻窪2丁目13番地。 今の住所では、上荻2-13-1。 今その場所にはマンションが建っている。
渡辺教育総監が銃撃されたとき昭和2年生まれのお嬢さんがいっしょにいたと『荻窪風土記』には書かれている。 それが2016年(平成28年)に亡くなった、ノートルダム清心学園の理事長の渡辺和子さんだ。 彼女の著書『美しい人に』(PHP文庫)にその時の様子が詳しく書かれている。 機関銃で撃たれた父親の体は蜂の巣のようだったとか、気丈に当時の様子を書いていらっしゃる。
渡辺邸があった場所の先には、『本むら庵』(杉並区上荻2-7-11)という大正時代からやっている老舗のお蕎麦屋さんがある。
井伏はさらに、先の八百屋の女将さんの話は作り話ではないかと書いている。 理由は、渡辺邸の近くに八百屋はないという。 しかし、そのかわり蕎麦屋があったそうだ。 たぶん、本むら庵のことだろう。 流れ弾が蕎麦屋の柱に当たって、親父さんは腰を抜かし、「だから偉い人になるもんじゃない」といったとある。 しかし、これもあとから、機関銃は庭からではなく、部屋に上がってから撃ったのだから、蕎麦屋に弾が届くはずもないと言っている。 さて、荻窪駅からJRで上野駅まで310円だった。 あれ、ラーメン代が600円、四谷から荻窪駅が220円、上野駅から四谷駅が155円。合計1285円。 あらら、285円のオーバーだった。
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