4.花見の仇討の舞台上野、飛鳥山を歩く

今月も金がない。

千円札一枚握りしめて、家を出た。

千円札一枚でべろんべろんに酔うことを『せんべろ』というけれど、僕の場合は、千円札でぶらぶらするので、『せんぶら』といったところか。

 

さて、向かった先は上野公園。

今回は、落語『花見の仇討』を歩くつもりだ。

上野公園は、我が家から歩いてすぐ。

花見の仇討の舞台を上野とする噺家さんと飛鳥山とする噺家さんがいる。

そんなわけで、上野公園から飛鳥山公園まで歩いてみようというわけだ。

 

今回は交通費がかからないから、その分、贅沢ができるって、一瞬思ったけれど、ダメダメ、千円を使い切るわけではなく、しっかり残して帰らないとね。

 

ご存じの方も多いかもしれないが、ざっと『花見の仇討』のあらすじをご紹介しよう。

4人の男たちが花見でなにかおもしろいことをしようと計画を立てる。

まずは、仇討だと思わせて、花見客を集める。

そこへ、仲裁役が「まあ、まあ」と言いながら、割って入ると、荷物の中から三味線、太鼓、お酒が出てきて、他の客は、この仇討は花見の趣向だと気がついて拍手喝采というシナリオなのだが、落語だから思い通りにはいかず、大変なことになるというもの。

この花見の場所が、上野もしくは飛鳥山なのだ。

 

・歌舞音曲は禁止だった上野

多くの噺家は『花見の仇討』の舞台を上野のお山にしている。

しかし、江戸時代の上野のお山は、寺のお堂などが立ち並ぶ場所で、花見でどんちゃん騒ぎなど認められるはずもない。

 

仇討が出てくるのだから、設定は江戸時代ということだから、舞台は上野ではない。

にもかかわらず、多くの噺家が上野を舞台にしているのは、明治以降、上野公園が桜の名所で、花見でどんちゃん騒ぎをするといえば、上野のイメージだったからだろう。

 

上野公園ができたいきさつはこうだ。

慶応四年(一九六八年)、上野の寛永寺を本営にしていたのが、旧幕府軍の彰義隊だ。新政府軍は加賀藩の上屋敷(いまの東京大学キャンパス)から、アームストロング砲などの大砲を撃った。

弾は不忍池を越えて、上野のお山に着弾。

彰義隊は根岸方面へ敗走し、上野のお山は焼け野原になった。

 

焼け野原になった上野のお山には、当初、医学校や病院ができる予定だった。

そのための視察に訪れたオランダのボードワン博士が、公園にすることを新政府に進言し、明治六年(一八七三年)に日本最初の公園として上野公園が誕生した。

上野公園内にボードワン博士の銅像があるのはそのためだ。

 

上野公園の花見といえば、とにかく花見客が多いことで知られている。

広大な土地に約七百本の桜が植えられている。

おもなのはソメイヨシノなのだけれど、実はそれ以外の桜もある。

今回、散歩に出かけたのは三月一日だったけれど、公園入口には2本のオオカンザクラがあり、どちらも満開だった。

上野公園は長い期間桜を楽しめるのが特徴だ。

 

上野公園の近くに住むようになって、お花見のピーク時の混雑は住民にとっては困ったものだ。

上野駅の公園口が混雑するからだ。

最近はわかってきたので、大きく迂回したり、隣の御徒町駅や鶯谷駅を使うことが多い。

花見客の方々も上野駅だけに集中するのではなく、鶯谷駅や御徒町駅を使ってみるといいだろう。

 

・江戸の庶民は遠足気分で飛鳥山へ

落語『花見の仇討』でおすすめの音源といえば、十代目金原亭馬生(きんげんていばしょう)のものだ。

いちばん笑ったし、江戸時代の雰囲気もよくわかる。

 

馬生は、落語一家に生まれている。

父は古今亭志ん生、弟は古今亭志ん朝だ。

三人とも名人だが、それぞれタイプが違う。

残念ながら昭和57年(1982年)、54歳という若さで亡くなった。

ちなみに長女は女優の池波志乃だ。

 

その、金原亭馬生の『花見の仇討』の舞台は飛鳥山だ。

江戸時代の人々が飛鳥山へ行く気分を、遠足にいくような気分だったと言っている。

その理由として、「本郷もかねやすまでが江戸のうち」という言葉を引用し、当時の江戸エリアは『かねやす』までなので、飛鳥山がかなりの郊外だったのだと説明している。

『かねやす』は、本郷三丁目の交差点のところにある雑貨屋だが、残念ながら先ごろ閉店してしまった。

 

馬生によれば、江戸市中から飛鳥山へ行くルート2つあったという。

ひとつは本郷口で、本郷三丁目から本郷通りを行くルートで、今は東京大学になっている加賀屋敷、吉祥寺などを通り過ぎ、駒込から左に行くルートだ。

それに対して、根岸口というのがあって、これはかつて音無川(おとなしがわ)というのがあったそうだが、その川沿いを歩いていくルートだそうだ。

いまでいえば、王子から鶯谷までのJR京浜東北線と重なるとのこと。

 

というわけで、行きを本郷口、帰りを根岸口で行こう。

というわけで、上野公園から不忍の池を見ながら、湯島の切り通しの坂をのぼっていく。

本郷三丁目の交差点を右に曲がって、本郷通りを進む。

 

東京大学の学食で昼ご飯というのもいいな。

安田講堂の地下にある学食は誰でも入ることができる。

あそこなら、安くすむ。

とはいえ、まだお昼前。

ああ、この本郷通りには独特のカレーライスを食べさせる『喫茶ルオー』や『万定フルーツパーラー』がある。

めちゃくちゃそそられるが、こちらはそんなに安くはない。

なんてことを考えながら、進めば、吉祥寺や六義園があり、JRの線路を橋で渡る。

 

駅前に染井吉野桜記念公園というのがある。

このあたりはかつて、植木職人がたくさんいた染井村だ。ソメイヨシノはここで生まれたのだ。

 

霜降り商店街というのがあって、そこを左。まっすぐ進むと滝野川一丁目という都電荒川線の停留所がある。

そのひとつ先の停留所が飛鳥山だ。

 

こちら、飛鳥山はソメイヨシノばかり、六五〇本ほどある。

当然ながらこの日はまだ全く咲いていない。

 

さて、おなかもすいてきた。

かつて音無川があった京浜東北線沿いに上野へ帰ろう。

まずは、飛鳥山を王子駅方向へおりていくと音無親水公園(おとなししんすい)というのがある。

実際の川があるわけではなく、昔を思い起こさせる川を模した公園になっている。

ここにも二一本のソメイヨシノがあって、花見の時期は多くの人が訪れる。

 

京浜東北線を田端駅に向かって歩いていると、少し道に迷ってしまった。

住居表示が上中里になっている。

と、突然、目の前になんともいえぬ、いい風情の町中華が現れた。

暖簾には“ますや”とあった。

住居表示を見れば、北区上中里2丁目38-10。

 

悪い予感のかけらもない。サッシの引き戸を開けて店内へ。

先客はなし。

テーブルに座ってスポーツ新聞を読んでいらっしゃった店主らしき男性が、席を立ち、厨房へ入られた。

 

壁にかけられたメニューを見て、正解だと確信した。

中華そばが400円だ。

タンメンやもやすそばは520円。

カレーライスやチャーハンは550円。

悩んだ挙句、厨房にいるご主人に「中華そばください」と言い、再びメニューを眺めた。中華そばの隣に“中華大盛”というのがあった。

反射的に「あの、中華大盛りにできますか?」と聞く。

「大丈夫ですよ」とのこと。

あっという間に、中華大盛りがやってきた。

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黄色い麺。

メンマ多数にチャーシューが2枚。

ナルトが一枚。

刻んだネギが少々。

いいビジュアルだ。

スープはどこまでもやさしい、昔ながらの鶏ガラスープ。

麺をズルズル。

あっという間に平らげた。

 

千円札を渡すと550円が戻ってきた。

うれしいねぇ。

今回の散歩の出費はこれだけ。

京浜東北線の方向をご主人に聞き再び歩き始めた。

さて、家まであと1時間歩くぞっと。

 

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