5.大久保利通が暗殺された現場を歩く
先日、ある雑誌から散歩についての取材を受けた。 散歩に必ず持っていくモノはなにかと聞かれ、「スマホと千円札一枚」と答えた。
スマホは地図アプリやカメラ機能が便利だし、情報の検索などにも使っている。 そして、現金は千円札一枚。 これだけなら、金の使い過ぎも防げる。
というわけで、今回も千円札一枚握りしめて、家を出た。
行先は霞ヶ関。 自宅のある上野から歩いていこうかと思ったが、あいにくの雨だ。 雨の日は電車に乗ることにしている。
東京メトロ、日比谷線の入谷駅へ向かう。 パスモの残高がないのでチャージしよう。 なぜパスモにこだわるのかといえば、切符を買うと霞ケ関まで二百円円だけどパスモなら百九十五円だからだ。
金欠になってパスモが十円単位でチャージできることを知ったのだが、十円単位なので、百九十五円ちょうど入れることはできない。 チャージする機械に金額を指定できるので二百と打ち込み、千円札を入れると八百円のお釣りが出てくる。
さて、今回の目的地はこの季節になるとどうしても歩きたくなる紀尾井坂だ。 場所は赤坂と四ツ谷の間、大久保利通が明治11年(1878年)5月14日に暗殺された場所だ。
大久保はこの日、明治天皇に謁見するため、午前八時に麹町区三年町裏霞ヶ関(現在の千代田区霞が関)にあった自宅から赤坂仮皇居へ向かっている。 交通手段は二頭立ての馬車で同行者は御者(ぎょしゃ)、馬丁(ばてい)の2名だ。
大久保の自宅は今でいえば財務省と金融庁の間にある三年坂の上あたりにあった。
この自宅から大久保が遭難した場所までは約2キロ。 歩いてもすぐだ。 最短のルートは、外堀通りから赤坂見附を過ぎ、弁慶橋を渡ればいいのだが、橋ができたのは明治22年で、当時はまだない。 大久保が乗った馬車は永田町方面から赤坂仮皇居をめざしたと思われる。
なぜ仮皇居なのかといえば、もともと旧江戸城西の丸御殿が皇居だったのだけれど、明治六年に火事で焼失したため、赤坂離宮が仮皇居になっていたのだ。 六本木通りから首相官邸の脇を通り、日枝神社、日比谷高校などを左に見ながら進む。 東京ガーデンテラス紀尾井町へ。 以前は『赤プリ』の愛称で親しまれた赤坂プリンスホテルのあった場所だ。 それより前は紀伊和歌山藩徳川家の屋敷があった。
ちなみに紀尾井町という名前は、このあたりに紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があったので、その頭の文字『紀』『尾』『井』をとって紀尾井町となったのだ。
・『紀尾井坂の変』は誤り?この東京ガーデンテラス紀尾井町とホテルニューオータニとの間の道が紀尾井町通りだ。 参議院議員宿舎の隣に清水谷公園がある。 このあたりで不平士族六名が大久保の乗った馬車を襲った。 当時このあたりはうっそうとした森だったそうで、道も馬車がやっと通れる細い道だった。
馬車の前に不平士族二名が花を持って立っていたそうだ。 馬丁の芳松が馬車を降りて、その二名に近づくと、いきなり短刀を抜き、馬に切りかかったそうだ。 芳松は命からがら近くの屋敷に助けを求める。
続いて、残りの不平士族四名も加わり、馬車を操っていた御者の中村太郎が殺害され、そのあとで、大久保が馬車から引きずり出される。 大久保は「無礼者!」と一喝したが、十六カ所も切られ、殺害された。
木戸孝允、西郷隆盛とともに維新の三傑といわれた大久保利通だが、暗殺されたときは、四十七歳で内務卿だった。 いまでいえば総理大臣というような地位だろうか。
木戸孝允は前年の明治十年に京都で病死している。四十三歳だった。 西郷隆盛も同じ年、西南戦争で亡くなっている。 四十九歳。三人ともまだ若かった。
清水谷公園には『贈右大臣大久保利通哀悼碑』というかなり大きな石碑が建てられている。 訪れた日は、まだ桜が咲いていた。 大久保を襲った不平士族六名は死刑になっている。
大久保利通といえば、目的のためなら方法は問わない剛腕な印象がある。 閣議決定していた西郷らの征韓論を裏から手をまわして、延期させた手腕などはやり手だなという印象がある。 そんな大久保利通にとって最大の失策が暗殺されてしまったことではないかと思う。 せっかくこれから内務卿としていろいろなことをやっていこうというときに、殺されてしまったのでは何もできないではないか。 なぜ護衛などつけずに馬車で移動したんだろうか。
いろいろと疑問の多いこの暗殺事件だけれど、僕の最大の疑問は、清水谷で事件は起きたのに『紀尾井坂の変』と呼ばれているのだろうかということ。
今回の散歩により、その答えが、千代田区の建てている説明板にあった。 紀尾井坂は清水谷の坂をあがると、左側に続いている。
説明板から抜粋するとこうだ。
“大久保利通が殺害された事件はこの坂ではなく、麹町清水谷(清水谷公園付近)で起きています。「紀尾井坂の変」と誤って伝えられているのは灯火を持ち、馬車を先導した人物がこの坂を上っている最中に事件が発生したからです”
とあった。 なんだかわかったようなわからない話だが、灯火を持って先導したというは、馬丁の芳松だ。
・お昼はいなりずしでも紀尾井坂をのぼると、四ツ谷から市ヶ谷方向へ続く土手が見えてきた。 桜が美しい。 上智大学のグランドを見ながら、赤坂御用地へ。あの日、大久保利通がたどり着けなかった門が見える。
さて、腹が減った。 どうしようかと、考えた。 以前、四ツ谷に住んでいた時にこのあたりはよく散歩していたなぁなんてことを考えていると、豊川稲荷で、いなりずしを買うのはどうだろうと思った。
赤坂御用地に沿って、坂を下りて、さらに青山通りへ。 豊川稲荷へお参りをして、境内奥にある売店へ行ってみる。 店頭でいなりずしを売り、中ではうどんやラーメンが食べられる店が並んでいるのだ。 ちょっと値段を見ると、うどんは500円、ラーメンは600円くらいか。 ここはいなりずしのテイクアウトだな。 豊川稲荷境内家元屋というのが、創業が明治三年とあった。 大久保利通が食べたかもしれないと買い求める。 三個入りで330円。 温かいお茶でも欲しいな。 そう思って、コンビニへ。 しかし、お茶って高いねぇ。 100円以上するなぁ。 だったら、水でいいじゃないの。 さっきの清水谷公園には、水飲み場があった。 水なら無料だ。
幸い、雨も止んでいる。というわけで、水飲み場に近いベンチへ座る。
甘辛いおあげがおいしいね。割と濃い味付けだね。缶ビールかワンカップでも買ってくればよかったかな。 と、ポツポツ雨が再び降り始めた。 帰りは歩いて帰ろうかと思っていたけれど、急いで、赤坂見附の駅まで。帰りの電車賃200円をチャージ。 本日の散歩出費は、720円。 ああ、ワンカップ買えたな。
犯人たちが持っていた斬奸状(ざんかんじょう/殺害理由が書かれた紙)には、いろいろな理由が書かれていたけれど、そのひとつが、不正に蓄財しているというのがあったのだそうだ。 実際は違っていて、大久保は公共工事に足りない分を自分が金を払っていたのだとか、そのため、借金しかなかったのだとか。 なんだか残念な気持ちが込み上げる。
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