3.余計な言葉『よいしょ』

容姿の欠点とか、君のバーガーだけ値段が高かったよとか、言わなくていいことがある。

私は人を傷つけないために、自分が余計だと思うことを言わないようになった。

それが、相手に対する思いやりから生まれた思いでないということは明白である。

自分が人を傷つけたことを、後になって不安に思いたくないからなのだ。

今のところ私の中で一番、人前で言う必要がないと思う言葉は、「よいしょ」だ。

私は、座るときや荷物を置くときなどに、何気なく「よいしょ」と言ってきていたのだが、それがあるときから、そのときそばにいる人に、「よいしょ」を「死ね」と聞き間違えられていたらどうしようと思うようになり、「よいしょ」と言うことがこわくなったのだ。

荷物を置きながら、相手の耳元で「死ね」。

そう言ったと思われたら、「よいしょ」と言った私のせいで、その人が死んでしまうかもしれない。

「よいしょ殺人事件」など、それこそ死ぬほど関わりたくない。

「よいしょ」と言わないだけで、そんな事態を防げるのならば、私は喜んで「よいしょ」を自粛し、黙る。

それ以来、意識的に黙って座り、黙って荷物を置くようになった。

私がもし殺人事件の被害者になったら、「誰からも恨まれるような子じゃなかった」と言ってくれる近所の住人は、誰ひとりとしていない気がするのだ。

マンションの階段ですれ違う人のあいさつのイントネーションで、恨まれているのだと不安になる私が、「死ね」と言われる被害者になったら、心当たりがありすぎて、またとてつもない不安を抱くことになる。

そんな事態に陥ることはごめんだ。

しかし加害者、つまり、「死ね」を言った側になって相手を傷つけてしまうのは、もっとごめん、つまり「ごめんなさいませ!」なのだ。

「ひらけごま」のように、「よいしょ」と言わない限り、万有引力の法則が、時給3万円の仕事をしていて立てなかったり、「よいしょ」と言うことで水浸しの床が開き、そこから小人が汗水流して作ったヒノキのテーブルが、ウィーン、ガチャッと現れて、荷物を置くスペースが設けられたりするのならば話は別だが、今のところ「よいしょ」にそういったパワーは備わっていない。

言わなくても立てるし、荷物も置けるのだ。

高校時代に古文の先生が、「物事には必ず例外がある」と呟いた。

「よいしょ」にも例外があるとするならば、それを言わなければならないときだ。

もしも私の身に、「よいしょ」と言わなければならない事態が起きたら、「死ね」と聞き間違えられないように、劇団員顔負けの滑舌で「よいしょ」と言えばいいのだ。

それはそれで、相手の鼓膜に衝撃を与えてしまったと不安になるのだろうが。

第三回イラスト

 

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