・避難先
行く当てはなかったが、とにかくここから、原発から遠く離れなければならない。
県外を考えた時、あまり親族のいない私は、隣の茨城県日立市の従兄弟を思い出した。
すがる思いで電話した。
電話の向こうは、とにかくすぐ来い、遠慮するなの声であった。
うれしかった。
ありがたかった。
本当に手を差し伸べてくれる人がいることの喜びを思った。
車は妻、息子、嫁、孫2人が乗り、国道6号を南下した。
途中山際の脇道に逸れ、頭の中で多少知っていた道をひたすら走った。
茨城県に入ると、急いでいる風情の我々を怪訝そうに見る家も散見された。
ここいらはまだ情報が入っていないのだろうか、比較的のんびりそうに見えた。
山道を延々と走り続け、夕方になってやっと従兄弟宅へ到着した。
家中で迎えてくれた。
やはり断水していて、トイレに困っているとのことだった。
食器が洗えないとのことで、器にラップを被せて食べた。人はいろいろと知恵を働かすものである。
翌朝早く名古屋へ出発する孫たちを、行けるところまでタクシーを走らすことにした。
年長と2歳の孫は、何かを察しているのだろうか、余りぐずりもせず寝て、ねぼけ眼で起きた。
妻が付き添い、タクシーは走って行った。
一体どこまで行けば電車に乗れるのだろうか。
その先東京で嫁の妹と合流し、姉の待つ名古屋へ向かうはずである。
その無事と、とにかく安全な所へ行くことを願った。
夕方、無事名古屋へ向かい、妻は東京の3男のアパートに着いたと連絡が入った。
良かった、良かった。
一安心である。
今後を考えた。
取りあえず私は東京へ向かい、2男はもう少しここにお世話になり、それからいわきの職場へ戻ることとした。
そんなことを話しているうち、従兄弟の姉夫婦が富岡町から避難してくる、との電話が入った。
JR富岡駅
・平穏な東京
翌日高速バスに乗り、東京へ向かった。
常磐道は、道路が大きく波打っていた。
途中電車に乗り換え上野駅で3男と妻が迎えてくれた。
息子の顔を見て、胸が熱くなった。
生きているって、こんなことを言うのかなと思った。
大塚の町は何事もなかったかのような表情をしていた。
人々は普段のように歩き、語らい、行き交っていた。
何なんだ。
一体これは何なんだ。
一体俺たちは今まで何をしてきたんだ。昨日までの、あの死ぬような思いは何だったんだ…。
そんな思いがした。
アパートでシャワーを浴びた。
実に1週間ぶりだった。
やっと落ち着いた。
やっと安心な場所へ着いた気分だった。
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