3.避難の日々のこと

・避難先

行く当てはなかったが、とにかくここから、原発から遠く離れなければならない。

県外を考えた時、あまり親族のいない私は、隣の茨城県日立市の従兄弟を思い出した。

すがる思いで電話した。

電話の向こうは、とにかくすぐ来い、遠慮するなの声であった。

うれしかった。

ありがたかった。

本当に手を差し伸べてくれる人がいることの喜びを思った。

車は妻、息子、嫁、孫2人が乗り、国道6号を南下した。

途中山際の脇道に逸れ、頭の中で多少知っていた道をひたすら走った。

茨城県に入ると、急いでいる風情の我々を怪訝そうに見る家も散見された。

ここいらはまだ情報が入っていないのだろうか、比較的のんびりそうに見えた。

山道を延々と走り続け、夕方になってやっと従兄弟宅へ到着した。

家中で迎えてくれた。

やはり断水していて、トイレに困っているとのことだった。

食器が洗えないとのことで、器にラップを被せて食べた。人はいろいろと知恵を働かすものである。

翌朝早く名古屋へ出発する孫たちを、行けるところまでタクシーを走らすことにした。

年長と2歳の孫は、何かを察しているのだろうか、余りぐずりもせず寝て、ねぼけ眼で起きた。

妻が付き添い、タクシーは走って行った。

一体どこまで行けば電車に乗れるのだろうか。

その先東京で嫁の妹と合流し、姉の待つ名古屋へ向かうはずである。

その無事と、とにかく安全な所へ行くことを願った。

夕方、無事名古屋へ向かい、妻は東京の3男のアパートに着いたと連絡が入った。

良かった、良かった。

一安心である。

今後を考えた。

取りあえず私は東京へ向かい、2男はもう少しここにお世話になり、それからいわきの職場へ戻ることとした。

そんなことを話しているうち、従兄弟の姉夫婦が富岡町から避難してくる、との電話が入った。

③(IR富岡駅)_R
JR富岡駅

 

・平穏な東京

翌日高速バスに乗り、東京へ向かった。

常磐道は、道路が大きく波打っていた。

途中電車に乗り換え上野駅で3男と妻が迎えてくれた。

息子の顔を見て、胸が熱くなった。

生きているって、こんなことを言うのかなと思った。

大塚の町は何事もなかったかのような表情をしていた。

人々は普段のように歩き、語らい、行き交っていた。

何なんだ。

一体これは何なんだ。

一体俺たちは今まで何をしてきたんだ。昨日までの、あの死ぬような思いは何だったんだ…。

そんな思いがした。

アパートでシャワーを浴びた。

実に1週間ぶりだった。

やっと落ち着いた。

やっと安心な場所へ着いた気分だった。

 

4.難民ということ に移動

 

One Comment

  1. Pingback: ふくしま発…泣いて、笑って、怒って、生きる!

コメントを残す