4.難民ということ
・東京暮らし後付けで書いた当時のメモ帳を見ても、「8日目 23.3.18 2男→いわきへ。…」の記載があるのみで、その後1週間ほどの記憶がない。 何をしていたのか、何かはしていたのだろうが、覚えてもいない。 メモする気力もなかったのだろう。 やっと落ち着いた安心感と、激しい疲労、虚脱感、不安、混乱、不安、動悸などが襲ってきていた。
TVでは、福島第1原発へのヘリコプターによる海水の投下が放映されている。 刻々と入る、原発事故の深刻さ。一体、日本はどうなってしまうのだろうか、と思った。 安全、安全、と叫ばれていた原発がこんな風になってしまうなんて。 安全を説き、原発を推進してきた政治家、首長、地方議員、科学者、経済団体、電力会社の者たちは何を思い、どう責任をとるつもりなのだろう、と頭の中で過ぎった。
夜、メールを見た。 Cメールが数件入っていた。 Aたちは足の悪い叔母を連れて県外に逃れ、彷徨い、また戻ったとあった。 Sさんは県外へ。 Mちゃんは神奈川へ・・・。 何でもいい。 どこでもいい。 生きていれば、いい。 生きていれば何にもいらないんだ。 つくづく、そう思った。 遠い世界の果ての出来事のようだった「難民」といく言葉が、今は自分たちを指しているのか。 この日本に、難民があるのか。 しかし、正しくそうではないか…。 ・東京歩き近くの銭湯へ行った。 手足を伸ばし、本当に気持ち良く、嬉しかった。 福島の話をしたら、一緒に浸かっていたおじさんが同情した声で激励してくれた。 番台の男性とも交わしたが、余り反応を示さなかった。 同情、激励を期待するわけではないが、多少の関心位示して欲しかった。 あの原発の電気は、皆さんのいる東京や首都圏へ送っているんだよって叫びたかった。 人はやはり、自分に被らないと関心もなく、他人事としか見えないのだろう。 東京8日目。 近くを散策した。 巣鴨駅前で、青年たちが東日本大震災の募金活動をしていた。 やたらうれしかった。 関心を示さない人もいるが、こうやって支援を呼びかけてくれている人々もいるのだ。 やっぱり見捨てたものじゃあない。 自分も被災者で避難者だが、募金せずにいられず、募金箱へ入れた。 そして、ありがとうございます、私も福島から避難してきました。 これからもよろしくお願いいたします、とお礼を言った。 箱を下げた青年はきょとんとした表情だった。 咄嗟のことで、何を言って良いか分からなかったのだろう。 それから旧古河邸、六義園、染井霊園などを歩いた。 墓地の近くで、自転車に乗った中年のおばさんに道を尋ねた。 実に親切だった。 くれぐれも頑張ってね、と心からの表情で励ましてくれた。 久しぶりに心地よく眠れた。
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