・次の日・・・。
一睡も出来ぬままに、朝を迎えた。
元来臆病な私は、この日の夜の暗い闇が本当に怖かった。
人々は寝そべり、じっと息をこらえ、恐怖におののいている。
こんなに長い夜は、おそらく初めてであっただろう。
早く…、早く…、早く…、朝が来てほしい。
叫びたいほどだった。暗い夜が本当に怖かった。
今、どこで、何が起きて、どうなっているのか、知らないことほど怖いものはない。
朝が来て、周囲が明るくなってきたが、人々はせわしく動き回り、人を訪ねて、人を探している。
家に毎日来ているYさんの主人と、娘さんたちが来て尋ねた。
「お母さん知りませんか?」
「えっ、ここでは見なかったけど…」
「きっと、別の避難所へ行ったんだよ。ほら、あそこの集会所も避難所になってるって聞いたよ」
「行ってみます」…。
悪い予感がした。
そして後日、津波で流された遺体が発見されたと聞いた。何もできなかった。
我々も避難している身であった。
請戸小学校
・えっ、 バクハツ?
避難所は自衛隊の車がやってきて、そこを退去するよう指示された。
市内の長男宅へ行き、5日ほど世話になった。
水は全く出ず、トイレが大変であった。
近くの川へバケツをぶら下げ水汲みに行った。
飲料水は給水所へ並んだ。バケツや、ジョウロ、衣装ケースなどを持って並ぶ人もいた。
連日大勢の人々が延々と、並んだのである。
これといった情報などは全く入ってこなかった。
実はこの時、東京電力福島第1原発で、爆発事故が起こっていたのである。
何も知らされないまま、放射性物質が降っている屋外に、延々と長蛇の列をつくっていたのである。
男も、女も、老人も、子供も…。
数日後、TVニュースなどでことの重大さを知る。
預かっていたおばさんは、横浜にいる弟さんへ連絡し、迎えに来てもらうことにした。
しかし電車もバスも不通であり、いわきからタクシーに乗車させ、水戸で合流とした。
息子夫婦の意見を聞いた。
嫁は、子供たちを連れて、姉のいる愛知県へ避難したいとのこと。
長男は、「市職員の自分が避難したら、誰が市民を守るのか。つらいけど、残る」の一点張りであった。
私の、「お前がいくら頑張っても、たかが知れている。それより今は自分の子供を守ってやることが親としての務めではないか」の説教に頑として首を振らなかった。
我々の車を見送る彼は、息子を抱きしめ、号泣した。
彼がそう思ったと同じく、私ももしかすると長男と最後の別れになるかもしれないと思い、胸が痛いほど苦しかった。
それから約一月の、転々とする避難が始まるのであった。
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