1.国を滅ぼす移民

~福沢諭吉の学問のすすめから移民を考える~

2千年以上続いた日本にも滅びが近づいています。

日本の強みは庶民の優秀さにありました。

庶民の強みは数ですが、少子高齢化のため移民に頼ろうとしています。

 

日本は過去2回、大量の移民を受け入れます。

7世紀、百済、高句麗の滅亡にともない大量に移民を受け入れました。

移民は渡来人と呼ばれ飛鳥文化開化の原動力になったと好意的に遺されていますが、当時の日本人は非常に警戒しました。

移民の増加にともない、百済からの亡命者は近江の国に、高句麗からの帰化人は武蔵の国に移す隔離施策を実施するとともに防諜法令を制定します。防諜法令では、計画中の討伐や謀逆者の検挙を漏らした者は絞首刑、天文などの機密を漏らした者、特に外国人に漏らした場合には重罪とします。

隔離政策と防諜法令により、移民が国政に影響を与えること、外国の勢力と結びつくことを抑えこみ時間をかけて同化することに成功します。

20世紀、毎年100万人以上の移民を満州に受け入れます。

有色人種の希望として日漢満蒙鮮の5族協和による王道楽土を目指していました。

当時の日本は日産を満州にうつして自動車を製造するとともに、製鉄、化学工業を発展させます。

世界第2位の発電量を誇るダムを建造して水害を抑え、水力発電により家々に灯りを灯します。

1932年に建国された満州国は1945年までの13年間に2,000万人以上も人口が増加します。

「すべての根拠地を失っても満州さえあれば社会主義革命を成功させることができる」と毛沢東主席は日本の敗戦後、真っ先に満州を奪いました。日本人は共産党により全てを奪われます。

親にはぐれて泣く子供、子供を探して叫ぶ母親、悲鳴をあげて逃げ惑う若い娘、誰にも顧みられずに焼け死ぬ老人。富も命も奪われました。数千から数万の子供が奪われ、取り返すのに20年以上かかります。1981年から2,000人以上の残留孤児が日本に永住帰国します。残留婦人(敗戦時13歳以上)も3,500人以上が帰国します。

「私は多くの日本人が示した卑屈に近い態度に驚いた。一万人ほどの日本人の男女と子供が私の方向に向かい、土下座する。いまや日本は完全にわれわれの慈悲にすがらねばならないハメとなった」(米陸軍大将 アルバート・C・ウェデマイヤー)

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移民の危険性について福沢諭吉の「学問のすすめ」から考えてみましょう。

「無学文盲、理非の字も知らず、身に覚えたる芸は飲食と寝ると起きるとのみ、その無学のくせに欲は深く目の前に人を欺きて巧みに政府の法をのがれ、国法の何ものたるを知らず、おのが職分の何ものたるを知らず、子をばよく生めどもその子を教えるの道を知らず、いわゆる恥も法も知らざる馬鹿者にて、その子孫繁盛すれば一国の益はなさずして、かえって害をなす者なきにあらず」

移民の中には学識の高い人もいるかもしれませんが、犯罪率などの数字を見ると「学問のすすめ」は正しいのではないでしょうか。

移民は日本語を理解しないため日本の法律を理解できません。

福沢諭吉は、このような人々を統治するためには暴政が必要であるとしています。王道楽土を目指した戦前はもちろん、現在の日本でも10年以上権力を掌握して暴政をほしいままにする政治家は存在しません。このため、移民の受け入れは困難ではないでしょうか。

 

敗戦までの日本の出生率は現在の3倍以上でした。米国のライバルとして時代を牽引していました。

現在の日本を牽引する島津製作所(1875年)、講談社(1909年)、パナソニック(1917年)、キューピー(1919年)、マツダ(1920年)、日産(1933年)、トヨタ自動車(1937年)などの企業は戦前に創立されています。

「戦前は、もちろん一部の例外はあったが、一般的にみて公私の別をわきまえ、道義心、責任感の上でも、外国に比べてむしろすぐれてさえいた。ところが戦後はこれがすっかり乱れてしまった。国民の血税である国費が乱費され、汚職が生れ、また会社の金をいろいろな名目をつけては、勝手に飲み食いに使うという現象が生れた」(パナソニック創業者 松下幸之助)

 

次回は加藤中佐の生き様から親孝行について考えたいと思います。

 

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