4.どうして勉強するの?

~加藤中佐の兄からの手紙~

・決して怠けるなかれ。遊ぶなかれ。しかして汚きくそ勉強はする必要なし。

なぜ学校の勉強をしなければならないのかと子供に尋ねられると答えに詰まります。

 

冬休み前、兄の農夫也から弟の建夫に送られた手紙から戦前の考え方について考えてみたいと思います。

 

『大正7年(1918年)12月20日

拝啓、冬休みもあと数日にせまり、さぞかしお待ちかねのこととそうろう。

休暇になり次第、早々帰省して、母上様始め、一同と楽しく正月をお迎えなさるべく、兄もうらやましく思ひ居りそうろう。

 

御身の学校における学術科の成績なんかも、少々通知に接し承知いたしそうろう。

大分よろしき様子なれどもびっくりするほどのことはこれなくそうろう。

兄は今より、力ある限り勉強せよとすすめ致さずそうろへども兄が平常よく言ひをる通り、主義を決めて、大なる着眼をもって、勉強することは極めて必要なることにそうろう。

主義とは何ぞ、決して点とり主義にては無きこれそうろう。

我は将来国家の干城(国を防ぎ守る軍人)たる将校になるべき卵なることを大眼目と致し、それがため、いかなる素質が必要なるかを考えざるべからず。

すなわち左の如し。

1.精神のしっかりしおること

2.人格の高尚なること

3.身体の頑健なること

4.知識の豊富なること

5.常識を有すること

なおその他、多々有これそうろへども今はこれを略しおきそうろう。

 

「事のなるは決して成るの日によるにあらず。必ず遠きところにそのしかるべき原因あるもの」たるを忘るべからず。

 

なほ前記第5項常識という上より見ても、地方幼年学校は、大いに必要なる科目を教えおりそうろう。

例えば将校になりていながら、日本の地名や外国の都会などを知らない者、応仁の乱が何時ごろ起こったかを忘れている者などは、ほんの常識のそうろへども、みっともなきものにそうろう。

又字の下手な者、皆一生の損にそうろう。

特に兄がいつも言う外国語、数学、漢文、作文などは特に気をつけて、人に負けぬようならざるべからず。

フランス語なんかは少し気をつけて勉強すれば、必ず第1番になれること受け合いなり。

何のため勉めざるべからざるかを自覚し、その自覚に対して、己の行動を徹底させること必要なり。

すなわち決して怠けるなかれ。遊ぶなかれ。

しかして汚きくそ勉強はする必要なし。いかなる方法にても点数さえ取ればよしと言うのは、兄は絶対に反対にそうろう』

 

島津源蔵は「立身」「立家」「立国(国家の繁栄をはかること)」を3大義務とします。

「人生とは何ぞ、偉大なるものへの憧憬なり 生きるとは何ぞ 偉大なる足跡をしるすことなり

若林の武人としての一生は見晴台で終わります。私の部下は強かった。私もこの部下も、後に続くものを信じます。死んでなお必勝を信じます」(陸軍中尉 若林東一)

 

個人の幸せではなく、人のため国のために命を遣った先人を教えることが「どうして勉強するの」の答えになるのではないでしょうか。

04

・成績優秀者を藩の役人に登用し、不勉強な者の家禄を没収

武士道という精神論だけでは国も会社も家庭も維持できません。

技術立国であり銃や航空機、薬を作れたため日本の国体は守られました。

 

明治政府は薩長土肥に興されます。

西郷隆盛、大久保利通の薩摩藩、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎の長州藩、坂本龍馬の土佐藩と比較すると肥前藩は地味なイメージですが、肥前藩の技術力が日本の独立を維持します。

 

ペリー准将による黒船来航の約50年前、英国のフェートン号が長崎港に侵入します。

オランダ船拿捕のため侵入したフェートン号は日本に飲料水と薪、食糧を要求し、拒否した場合は和船を焼き払うと脅迫しました。

警備を行っていた肥前藩は脅しに屈したため、江戸幕府から叱責されます。

1830年(フェートン号事件から21年後)に15歳で家督を継いだ鍋島直正は「学問を合戦と思え」「家に忠義を尽くそうと思えば、寝ずに理化学を学べ」と叱咤激励するだけでなく、役人を5分の1に削減して歳出を減らし産業育成に力を注ぎます。

家柄ではなく成績優秀者を藩の役人に登用し、不勉強な者の家禄を没収します。改革により肥前藩はヨーロッパ小国並みの近代国家となります。

肥前藩兵40名は他藩の1000名に匹敵するとまで評され、佐賀の大砲と呼ばれたアームストロング砲と佐賀の黒船が官軍の勝利を決定付け、外国の侵攻を抑止します。

不治の病、天然痘に長男の鍋島直大で牛痘ワクチンの試験を行うとともに、成果を独占せずワクチンを各藩に分け与えて天然痘撲滅にも貢献します。

 

Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country.

国が何をしてくれるか問うのではなく、あなたが国のために何をなすことができるか問うて欲しいというケネディー米国大統領の言葉は歴史に名前を残す人にとって共通的な考え方です。

加藤教という言葉が流行した加藤中佐も国のために一つしかない命を使います。

 

1937年に試作された戦闘機「隼」は長距離飛行と旋回性能を具備したことから強度が弱く、当初はちょっとした操縦で分解したため殺人鬼と恐れられます。

パイロットは試作機に乗ることを嫌がりますが、加藤中佐はテストパイロットに志願し、速度、ネジレ、強度などの限界を技術者とともに調べて性能向上に寄与しています。

1941年の開戦とともに隼は英国のスピットファイア、ハリケーン戦闘機と格闘戦を行う。

格闘戦のため防弾などを外して飛行機を軽くする傾向の中、飛行第64戦隊では無線機を外すことが禁止されていました。加藤中佐は空中戦闘で無線連絡がいかに重要であるか、その確立が課題であることを部隊に説き、聞こえない無線機を最後まで離さずに技術者と協力して改良に心を砕いていました。

 

1941年12月22日、クアラカンサル橋を確保する命令が飛行第64戦隊に下ります。

橋を破壊されるとシンガポール攻略が3ヶ月遅れると言われていました。

「わが部隊は、クアラカンサル上空に出て来る敵を迎え撃つよりかむしろ事前に、積極的に敵空軍の根拠地を覆滅せんとす。部隊は独断をもってクアラルンプールの敵空軍基地を壊滅する」

マレー半島最初の組織だった戦闘において敵の機先を制する決断を下します。

日本軍は敵の強い部分を叩くこと、艦隊同士の正面衝突、戦闘機同士の空中戦に固執しますが、米軍は弱い部分を叩くことに力を注ぎます。

加藤中佐も米軍と同様に敵の弱い部分、敵の戦闘機が飛び立つ前に叩くことを優先しました。

 

加藤中佐は集団としての戦いを重視します。

敵機を撃墜すると戦闘機胴体に撃墜マークを書き入れるのが一般的でしたが、個人の手柄を戒め集団としての戦闘力発揮を強調し「もし君は何機撃墜したか聞かれたならば部隊の撃墜数を述べよ」と太平洋戦争にのぞむ最初の訓示で示します。上空を警戒する航空機により戦闘機は攻撃が可能となる。自らの武士道を満足させるため一対一の戦いに固執することは任務遂行には無益であると厳命します。

撃墜マークの完全廃止を徹底した加藤隼戦闘隊は常に団結が保たれ、軍歌に残る戦果をあげていくことになります。

自分のためではなく国のためにという考え方が勉強の動機となり、積み木崩しとならない子供を育てるのではないでしょうか。

 

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