3.国に報いる人は親孝行

~加藤中佐を育てた教育~

1941年12月から1942年の6月まで、日本は英米などの連合国相手に連戦連勝でした。

日本の勝利は200年以上続いた秩序を破壊します。

 

先人はなぜ強かったのか?

 

種と仕掛けは戦闘機による制空権の獲得にあります。

香港、シンガポール、ビルマ、インドネシア、フィリピンを短期間で奪えたのは、少数のエースパイロットの技量と戦闘機の能力に起因します。

エースと呼ばれるパイロットに育つのは何十倍という倍率、競争をくぐりぬけて育成されたパイロットの中でも5%程度です。

エースは仲間のため先頭に立ち戦うことから瞬く間に亡くなります。

エースの死とともに日本軍は優位を失い米国に敗れます。

 

人類の歴史を変えたエースの一人が加藤建夫中佐です。

 

「加藤隼戦闘隊」と呼ばれた飛行第64戦隊の指揮官、加藤建夫中佐は1903年、北海道の旭川に生まれます。

父の鉄蔵は屯田兵士官であり、1904年8月に召集を受け乃木第3軍として日露戦争に従軍、奉天会戦で戦死します。40年の生涯を20町歩の耕地開拓に努め、召集されるや国のために武勲をたてた鉄蔵の思いは、母キミと兄の農夫也から建夫に引き継がれます。

「男の子2人は軍人になりなさい。それが父への唯一の孝行です」

医者、実業家ではなく「軍人になりなさい」と教えられ育ちます。

キミはどのような心情で子供が軍人になることを望んだのでしょうか?

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兄の農夫也から建夫へ送られた手紙にキミの思いと戦前までの考え方が遺されています。

『弟へ 大正7(1918)年10月31日 兄より

御身が入校に際し、入院したりとの報、母上様のお耳に入るや、母上様は夜も寝給わず食も進まざるまでにお案じあそばされ、毎朝未明誰一人起きざる時立ち出で給い、風の日も雨の日も欠かさず上川神社に日参し給いしと。

御身はこれを聞いて何と感じ給うぞ。

親なればこそ、母上なればこそ。

兄はこれ以上何事も言う必要を認めずそうろう。

 

ただ一つ吉田松陰先生の歌を示しおきそうろう。

「子を思う心にまさる親心、けふのおとずれ何と聞くらん」

ああ世に有難きものは親にこそ。

ことに吾々の母上様ほど慈悲深く、子を思ひ給ふは、世間広しといえども断じて他に求むべからず。

われわれ同胞3人、幸いにこの如き母を有するは無上の誇りなると共に、全力を尽くしてこの御恩の万分の一にも報いざるべからず。

いざや共に勉めんや。

かく君にも忠なるを得べく、国にも報ゆるを得べし。

孝は百孝の基なり。われわれはただこれを目標として進めばよろしくそうろう。

 

また9月28日は御身の誕生日ゆえ、陰の膳(無事を祈って供える食事)を供へ、種々ご馳走をせられたりとのことなるが、御身はこの如き事は想像せられしか否か。

何卒母上様の御恩については片時たりとも忘れざるよう心掛けこれあるべくそうろう』

 

親心は今も昔も変わりません。

 

現在との違いは「国にも報ゆるを得べし」という箇所にあります。

 

当時の学校では教育勅語(1890年発布)に基づき、江戸時代に培った武士の徳目「忠節」「廉恥」「信義」「規律」「尚武」「自己犠牲」を全ての階層に受け継がせることを目標とします。

庶民が忠義と孝行であれば日本は天壌無窮(天地の存在する限り、永久に続くこと)である旨を天皇陛下のお言葉として教育します。

 

家庭を滅ぼす人は「自分の一家と国家とのつながりを知らぬ人」

家庭が積み木くずしとならないように、国に報いることを子供に教えるべきではないでしょうか。

 

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