第3話家族のためにも、逆境を耐え抜く

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現在、イタリアの名門インテルで、6年目を迎え、今や世界レベルの知名度を誇る長友佑都選手。

高校時代、3年生でようやくレギュラーを獲得した選手が、その後、Jリーグ、日本代表、海外移籍、名門チームへの移籍とまたたく間にスターダムにのし上がっていきました。

そんなサクセスストーリーに目を奪われがちですが、高校時、プロはもちろん、大学からも誘いを受けることのなかった長友選手は、明治大学に指定校推薦で進学。しかもケガの影響もあり、大学2年の途中までは試合に出ることもできませんでした。

スタンドで太鼓を叩いて、チームメイトを応援していた彼はしかし、高校時代に掲げた目標を失うことはありませんでした。

母子家庭で決して恵まれた環境下ではなかったにもかかわらず、私立の強豪・東福岡高校に送り出してくれたお母様のためにも、「自分が経済的にも家族を支えるんだ」という意志のもと、逆境にも負けず努力を重ね、プロの誘いを受けるまでになったそうです。

その後の活躍は、皆さんもよくご存知の通りです。

さて、私の知人で、長友選手と近い境遇にありながら、やはり強い意志のもと目標を叶えた選手がいます。

以下は、知人が前職で寄稿していたメルマガの引用です。

(前略)

「自分もあの華やかな舞台に立ちたい!」

小学校6年生のとき、「プロサッカー選手になる」という夢を掲げました。

当時、Jリーグが開幕し、 三浦知良選手やラモス選手などが活躍しているのをテレビで見て、 子供心に単純に「プロってかっこいいなあ」と思ったからです。

また、私は4人男兄弟で自分の部屋がなかったことと住んでいた家が小さい家だったことから、 「プロで稼いで、家族みんなで暮らせる大きな家を建てる」 という目標も抱きました。

家族みんなで大きな家に住めると楽しいだろうなあと、当時は家の間取りまで考えていました。

(中略)

高校は強豪・東福岡高校に進学しました。

中学生時代、福岡市選抜に選ばれてはいたもののそれ以外に目立った実績を残せていなかった私は 「3年間で必ずレギュラーになり全国大会に出場する」という無理だと思われるくらい大きな目標を決めました。

プロサッカー選手の目標は持ちながらも試合でもほとんど負け続けてきたへたくそな自分。

全国から自分より上手い有名な選手が集まってくる、そして毎年有望な後輩も入ってくる。

入学して現実を知れば知るほど無謀な目標だと思えてきました。

その頃はすでに 「プロ」はぼんやりとしか考えることができないほど遠い夢になっていました。

しかし、東福岡高校で1軍を目指すことも試合に出ることも可能性としてはそれ以上に低いと思っていたので、まずは「高校で試合に出る」という現実的に見て難しい目標を達成することを目標に定めました。

1年時のサッカー部員数は150名、その中で同級生は80名もいました。

一緒に入った同級生は厳しい現実に 次々とサッカー部を辞めていきました。

自分より上手い選手たちもたくさん辞めていきました。

自分は絶対に辞めることなく、 3年間でレギュラーを勝ち取るために、 「毎日誰よりも厳しく激しい練習をやろう」 そして、「誰よりもしつこくサッカー部に居続けてやろう」と決めていました。

その結果、3年時にはレギュラーとして全国大会に出場することができました。

3年間でサッカー部に残った同級生は15名程度でした。 11名のレギュラーのうちほとんどがサッカー特待生で、普通に勉強をして高校進学してきた生徒は自分だけでした。

(中略)

知人はこの後、福岡大学に進学し、ここでもケガなどさまざまな苦境に立たされながらも、周囲への感謝を忘れることなく練習に取り組み続け、4年時の頑張りが認められ、念願のJリーガーになりました。

メルマガでは、プロ入団までの10年間で最もきつかったことを振り返っています。

(前略)

私の場合、高校時代、 自分の立ち位置が現実に見えてきた時が最もきつかったと記憶しています。

当時、150名の部員のうち120名が狭い場所でひたすら1対1や2対2のトレーニングでした。

たまに何人かトップチームに呼ばれるのですが次の日にはすぐに戻ってくる。

自分はいつまでたっても呼ばれず、「いつになったら普通のコートでトレーニングができるのだろう?」 と思いながら過ごしていました。

3年になってやっとトップチームのグラウンドで練習することができました。

しかし油断するとすぐに狭いところへ追いやられる。危機感を持ちながら日々トレーニングに励んでいました。

狭いところでやっていたときでも腐らず自分の課題と向き合い、 コツコツと部活や自主練に励んでいた自分は、 今振り返ってみても「目標に対して本気」で取り組んでいました。

先が見えなくなり、 挫折してやめていった有望選手も数多くいました。

「今やれることを精一杯やれる選手」がどのカテゴリーにおいても最終的に残っていたように思います。

(以下略)

この知人の名は、「奈良崎寛」さんと言い、かつてサガン鳥栖でプロサッカー選手として活躍され、今は福岡大学サッカー部でコンディショニングコーチを務めていらっしゃいます。

私が奈良崎さんとお会いしたのは、現役引退後、福岡のコーチ・コントリビューション株式会社(代表取締役・市丸邦博氏)でコーチング事業のコーチとして活躍されていた時でしたが、いつお会いしても笑顔を絶やさない姿が印象的でした。

長友選手も、奈良崎さんも、決して家族のためだけにサッカーをしてきたわけではないかもしれません。

しかし、どんな逆境にも負けない強さの一部は、間違いなく家族を想う気持ちが育んだものではないかと思うのです。

高校サッカーで挫折を経験した私自身、お二人には遠く及びませんが、今自分の家族を持つことでようやく家族の支えを力に、少しずつ苦しいことにも立ち向かえるようになってきたように思います。

人生まだまだこれからですね。息子たちと一緒に頑張っていきます!

(了)

【参照 コーチ・コントリビューション株式会社 コーチ・サッカー・スクールメルマガ】

 

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