16.佐々木智子先生

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・震災物語“ソバニイルヨ”の つづき・・・

前号で拙著「ソバニイルヨ」の話をした。震災で親や家族を亡くした子供たちの物語だ。

東北各地のそのような子供たちを何とか励ましたい、何とか勇気づけたい、何とか元気になって欲しい、何とか前を向いて歩いて欲しい、何とか…という自分の勝手な願いと思いから書いた。

 

今読んでもお粗末な内容だ。

文章を書いたり、小説をかじっている人から見れば鼻にもかからないだろう。

しかもたった1週間ほどしかかけないで書上げ、構想も推敲もひ弱でお粗末。

それでも手に取ってくれる人が出て、じわじわと広がっていった。

 

中学3年時の担任の恩師からは、まとめて送るよう連絡があった。

その佐々木智子先生は福島第一原子力発電所のある大熊町に住んでいて、避難のため会津やいわき市、都下などを転々とし東京練馬区の有料老人施設で暮らしていた。

もう90才を超えていたが元気で淡々と暮らしていると同級生の五十嵐さん、同じく教え子であり先輩でもある宮﨑さんが教えてくれた。

 

後日電話があり先生は私の書いた本を読み大変喜んでくれ、全国にいる教え子や知人へ送りたい、とのことであった。

そのことが思いもよらないつながりとなり、私の住む町出身の方の目にとまりそのTさんからもまとめて送ってくれるよう依頼があった。

巡り巡って郡山市の小学校の皆さんが読んでくれ、全員の感想文まで送ってくれた。

この中にはあの震災を経験し様々な思いを持っている子もいると思うと、感慨深いものがあった。

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・恩師の晩年と別れ

暫くして横浜市で原発事故の話をと依頼があり、2日間港南港北2会場で話す機会を頂いた。

講演が終了し、この機会を見つけ練馬区へ避難中の佐々木先生へお会いすることにした。

東武東上線成増駅からバスに乗り暫く歩いたがどうにも見つからない。

その時期にしては暑い日であったが、途中先輩の宮﨑さんへ電話で尋ねながらやっとたどり着いた。

先生はとても90才を越えているとは思えないお元気な表情で、当時のままのようなにこやかな笑顔で待っていてくれた。

 

原発事故が起きて、何が何だか分からないまま各地へ避難したこと。

ここへ来る前いわきの教会に避難し充実していたこと。

この施設にはお姉さんも、妹さんもいてさみしくないこと。

担任だった同級生や先生方のこと。

同級生の五十嵐さんと先輩の宮﨑さんが良く訪れてくれること。

私の現状と本のこと。

などを延々と話してくれた。

そして頑張っている教え子がいるとうれしい、と笑顔を見せてくれた。

帰りにはお姉さんたちを紹介してくれ、わざわざ2階から降りて事務所のスタッフの方へも紹介し、玄関まで見送ってくれた。

 

穏やかに、笑顔で、右手を挙げて、ありがとう、ありがとうと言ってくれた。

思えばこれが最後の別れになった。

今年1月14日96才の生涯を終えた。

 

1月26日には、最後に留まったいわき市の教会で教会葬が行われ参列させて頂いた。

先生は、死亡は知らせるな、香典供物お花などは受け取るな、しかし来てくれた方へは最大のおもてなしをせよ、と遺言されていたとのこと。

讃美歌に送られ、静かで質素な中にも、参列者の熱い思いが充満し、先生らしい厳かな素晴らしい教会葬であった。

 

振り返れば原発事故から7年目を迎え、90才からの先生の晩年は避難に明け暮れた7年間であったのかと思うと、いたたまれない気持ちになるのは私だけであろうか。

あの原発事故さえなければ、穏やかに信仰心を持って充実した日々がもっと続いていたはずである。

原発事故さえなければ・・・。

合掌

 

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