2.喜遊・幸田露伴

つゆをだにいとふ大和の女郎花
ふるあめりかに袖は濡らさじ(喜遊[きゆう])

横浜・岩亀楼[がんきろう]の遊女=喜遊の辞世歌である。

「露に濡れることさえも嫌う日本の女郎花(=女郎)である私は、降る雨=アメリカに人に、袖を濡らすものか、濡らさないつもりだ」

といったほどの意。

つまり、日本の遊女である私は、アメリカの男には肌を許すまい、といった主旨の歌である。

一本筋の通った、凛とした大和撫子の毅然たる態度を見てとれよう。

その意気やよし!「露」に涙、「女郎」に露をまとった花、をたとえている。

幕末の当時、アメリカ人が出入りしていた岩亀楼では、日本人相手の遊女、外国人相手の遊女とに分かれていて、喜遊は日本人相手の遊女だったという。

その彼女も、アメリカ人のイリウスに見初められ、見受けされることになった。

彼女は、逃れられない状態に至る。

イリウスは早速、千両の金を持参し登楼[とうろう]したが、喜遊は姿を見せない。

不審に思って、楼主が部屋を覗いたところ、喜遊はこの歌を残して、自害していた、という。

時に、亀遊は17歳。

懐剣で喉を一突きしての死だったとか。

攘夷の風潮が強かった当時、喜遊は「攘夷女郎[じょういじょろう]」として瓦版に取り上げられ、評判だったという。

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じゃ、おれはもう死んじゃうよ。(幸田 露伴[ろはん])

「五重塔」で知られる文豪・幸田露伴の最期の言葉。

死の数日前の、病床での露伴と娘との会話(やりとり)と死までの状況は、以下のとおりだったという。

娘 「お父さん、死にますか?」

露伴 「そりゃ、死ぬさ」  「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」

この後、意識が途切れがちの状態が続いた後、3日後に死去(死因は老衰)。

短くて、簡潔な言葉だが、なんとなく余裕や自信や充実感みたいなものの感じられる言葉である。

とりわけ、「もう」の中に「こんなに長生きしたのだから」「やりたいことはやりとげたから」といった気持ちが伺えるが、どうだろうか?

幸田露伴(1867~1947)は、江戸生まれの小説家。擬古典主義作家の代表。尾崎紅葉とともに「紅露時代」を築く。博覧強記。小説「風流仏」「五重塔」「連環記」、史伝「頼朝」「運命」などのほか、古典研究「評釈芭蕉七部集」、戯曲「名和長年」などの作品もある。第1回の文化勲章受章。

 

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