8.正岡子規・石川五右衛門

①糸瓜[へちま]咲いて痰の詰まりし仏かな
②痰一斗糸瓜の水も間に合は[わ]ず
③を[お]ととひ[い]の糸瓜の水もとらざりき(正岡子規)

子規辞世の三句。

それぞれ、

①「糸瓜(の花)が咲いたが、(その水を飲んでも、痰が切れなくて)喉仏に痰が詰まってしまった自分は、もはや仏と同じであることよ」

②「痰が一斗(出て)、糸瓜の水も間に合わないことだ」

③「一昨日の糸瓜の水も、(もう)取らなかったことだ」

の句意。

子規は、二十代の時から肺結核・脊髄カリエスの病に冒されていた。

結核は、喉の奥に痰が詰まり、咳が出て息苦しい病気とされていた当時、「糸瓜の水」は痰を切るのに効果があるとされ、とりわけ8月15日に水を取るとよい、と信じられていた。

また、中秋の名月の夜にとった糸瓜水(へちますい)を飲むと、咳が鎮まるとの言い伝えに従って旧暦8月15日に、糸瓜の水を取るという習わしもあった。

一日中病床にあった子規は、外の糸瓜を見ながら、喉仏に痰の詰まった自分はもはや仏と同じだとし、糸瓜の水をどんなに取った(③の「をととひ」は、咳を止める糸瓜水を取るはずの15日)ところで、何の効果もないといって取らなかった。

子規自身、すでに死期の近いことを悟っていたからであろう。

三句を時系列で記すと、

「喉仏に痰が詰まる→一斗の淡が出る→糸瓜の水を取らず」

となり、順に、症状が悪化していること、最後はあきらめ、死後の近いことを認知していることがわかる。

観察の鋭さ、描写の確かさは、写生主義を唱えた子規の面目躍如、といったところか。

ちなみに、子規の命日は9月19日で、この日は「糸瓜忌」とされている。「獺祭忌[だっさいき]」とも。

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石川や浜の真砂[まさご]は尽くるとも
世に盗人の種は尽くまじ(石川五右衛門)

安土桃山時代の大盗賊・石川五右衛門(1558?~1594)の辞世歌である。

彼は、京都の三条河原で釜煎りにされて死去。

その今際[いまわ]に詠んだのがこの歌。

意味は、「浜の真砂はなくなることはあっても、世の中におれ=石川のような盗人(の種)は居なくはならないだろう」。

浜の真砂は小さくて、無数にして無限。

その真砂が仮になくなったとしても、世間から盗人は居なくならないだろうと、盗人が居なくならないことを「浜の真砂」との対比において強調した歌。

 

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