7.再開店前後のこと

・日々の出来事

お店の再開後も、連日自宅の片づけに追われた。

自宅店舗は結構広いので、毎日毎日片づけかたづけだった。

実は、長男宅から自宅へは再開前の3月30日に戻った。

震災から20日ぶりだった。

同じ町内に住む妻の従姉妹も同時に我が家へ来て、同居することとなった。

彼女の自宅も津波にやられ、大規模半壊の認定を受けており、家中めちゃめちゃ。

海水、砂が入り、とても住めるような状況ではなかったからだ。

食事は彼女が担当することになり、妻も手が省けることに喜んだ。

彼女は我が家から自宅へ通い、片づけをする毎日となった。

困った時はお互い様、とはよく言ったもので、我々も困窮したとき差しのべられた手にどれほどの喜びと、感謝をしたことか。

今度は、お返しをする番だけのことだ。

 

毎日の日々は、様々なことがあり、様々な対応にも追われた。

先ずは家の片づけと修理だ。

畳屋さん、水道屋さん、電気屋さん、土建屋さんなどと頻繁に連絡し、要請した。

しかし、町中が同じような状況になっており、人材、資材等の不足から思うように運んでいくことは出来なかった。

復旧の最中に、再び余震による断水発生などもあり、日々は遅々として進まないのだ。

⑦レオ店内_R

・余震頻繁

その間も、余震が頻繁に続いた。

店の再開前になるが、4月11日、ちょうど東日本大震災のひと月目にあたるこの日、17時21分頃M7.1 震度6弱の地震が発生した。

震源地は福島茨城県境沖であり、東日本大震災の余震と認定された。

翌4月12日にも14時07分、震度6弱の地震が発生し、いわき市の山間部地区において山崩れが起き、女子高校生を含む3名の方々が死亡した。

やっと復旧していた水道が再び断水し、またまた不自由な生活を強いられることとなる。

この1回目の余震は怖かった。

空が真っ暗になり、雷がさく裂し、稲妻が走り、大地が揺れた。

車に乗り込み、いつでもいづれかに避難する準備をしたほどだ。

そして、13日震度4、14日震度4、と続いた。

その都度、津波の情報を待ち、警戒し、そして東京電力福島第一原発の状況を心配しなければならなかった。

地震や津波、自然災害がある度に、このような心配や、不安に怯え続けなければならないのだろうか。

自宅は福島第一原発から35㎞圏に位置しているが、原子力発電所が近くにあるだけで、その是非の意見も述べられず、いざという時の補償もなく、ただひたすら避難すること。

そして、これから40年も50年も危険と対峙し、不安に怯え続けなければならないという理不尽さは、果たして供給を受けている関東、東京の利用者はどのように思うだろうか。

 

これら危険なものを推進している電力会社、与党政治家や首長、経済団体、産業団体、科学者、学者、地方政治家などはその矛盾を、どのような言葉でだまし続けようとするのだろうか。

 

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