6.喫茶レオ、再開のこと

・こんな店で、こうだった。

自宅で、妻が喫茶店を開いている。

店の名前は「喫茶 レオ」という。

今から41年前、妻が自身の自宅一角に開いたもの。

1974年(昭和49年)開店であるから今年で41年目、東日本大震災・福島第一原発事故の時は37年目、ということになる。

現在のメニューはコーヒーだけであり、店も14,5名が入れるだけの、小さな構えだ。

町内の近くの人だけが訪れるような、ささやかな店だが、それでも朝の家事を済ませたなじみの主婦たちがコーヒーとおしゃべりを楽しみに、やってくる。

 

あの日3月11日も、午前中はそういった顔ぶれでおしゃべりしていた。

前日にハワイ旅行から帰って来たばかりの、妻の土産話に花が咲いていたという。

それから4時間程後の大地震であった。

その土産話を楽しそうに聞いていたYさんが、まさか翌日遺体となって発見されるとは、思いもつかない出来事だった。

 

そんな店も、地震と、床上浸水となった被害は甚大だった。

エアコン、冷蔵庫、電話、カップなどが倒れたり、落下して粉々になり、何よりも海水に浸った店内はその異臭と、運ばれてきた海砂などでどこから手を付けてよいやらの有様であった。

毎日毎日片づけに追われ、運んでも運んでも汚泥と細やかな海砂の処理は進まなかった。

⑥レオ (2)_R

・レオ、開けるよ!

毎日片づけをしている姿を見て、近所や馴染みの客が声を掛けて行くようになった。

生きていた喜びや、この間の苦労を分かち合うように、妻と思わず抱き合い、ハグする光景も毎日のように見受けられた。

 

どこへ行ってたの? いつ帰ってきたの? 家は流されなかったの? 片づけはしてるの?家族は無事なの? ○○さんはどうしてるの? 原発は大丈夫なの?・・・延々と話は尽きない。

その光景は、別な人が通るとまた始まり、また別な人が来るとまた始まる、という日々になった。

私は経験していないが、まるで焼け野原となった終戦直後のようではないか、と思った。

何しろ、多分町内のほとんどが、原発事故から逃れて県内外、日本中に逃げまどったのだから。

 

顔を見ては泣き、話を聴いては泣き、消息を思っては泣く。

町内あちこちで、立ち話をしながら、同じ光景が繰り拡げられた。そうしているうち、

「帰って来たって、行く場所がないんだよ」

「流された家もあるし、流されなくても家の中には入れないし」

「いろんな話もしたいけど、どこもない」

など、一変した環境の深刻さを見た。

何しろ、開いてるお店など一軒もないのだから。

食べ物すらなく、水もなく、ましてや人がおしゃべりする場所などあるはずもない。

近くの四倉高校の避難所には、まだ数百名の人々が避難している状況であった。

 

「お店開けてよ」「いつ再開するの」「レオさんが営ってくれればうれしいな」…多くの方々からオープンを望む声が寄せられた。

「実は店も大分壊れたし、年齢も年齢だし、これで閉めようと思うんだ」

「えーっ、それじゃどこにも行く所がなくなっちゃうよ」「困るよ」、そんなやり取りが続き、妻と相談し、こんな状況だし、地域への人助けのつもりで最後のご奉公にするか、という思いで再開したのである。

平成23年4月19日(火)、東日本大震災からちょうど40日目、雨の日の暫定再開だった。

⑥レオ (1)_R

 

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