10.平忠度・山崎宗鑑・鹿都部真顔
行き暮れて木の下陰を宿とせば 「あの」薩摩守忠度=平忠度の辞世の歌である。 「あの」とは、忠度=ただ乗り=無賃乗車のこと。 歌は、「旅の途中で日が暮れて、(桜の)木陰を宿とするならば、花が今夜の宿の主人となり、もてなしてくれるだろうか」といった意(「や」は、疑問の意の係助詞)。 一の谷の戦いで、忠度は岡部六弥太に打ち首された。 六弥太が忠度の箙の文を取って見たところ、「旅宿の花」という題でこの歌があったという(「平家物語」忠度最期)。 忠度の死に際しては、文武にすぐれた人物を亡くしてしまって・・・と敵・味方の間で惜しまれたとか。 平忠度(1144~1184)は、平安末期の武将。清盛の弟。正四位下薩摩守。歌にも秀でる。 宗鑑はどこへと人の問ふ[ふ]あらば 歌は、 「宗鑑はどこへ行ったかと人が尋ねることがあったら、ちょっと用があって、あの世へ行ったと言ってくれ」 といった意で、山崎宗鑑の辞世の歌。 実際、宗鑑の死因は、背中にできた腫れ物の癰[よう]だったとされる。 「用」に「癰」を掛けている。 山崎宗鑑(?~1540ごろ)は、室町後期の連歌師で、俳人。荒木田 守武[もりたけ]とともに、俳諧連歌の祖とされる。「新撰 犬筑波[いぬつくば]集」の編者。
うまく食ひ[い]暖かく着て何不足 狂歌師・鹿都部真顔の辞世の歌(狂歌)である。 「おいしく食って、(着物を)暖かく着ているのに、何の不足があろうか。享年七十七歳まで生き仏陀に帰依[きえ]できるとはありがたいことだ」といったほどの意。 要するに、「暖衣飽食の状態で七十七歳まで生き、仏様に帰依できる自分はありがたく感謝したい」といった主旨の歌。 「着て」の「て」は逆接の意の接続助詞で、「・・・のに。・・・ても」などと訳す。 江戸後期の狂歌師・鹿都部真顔(1753~1829)は、江戸の生まれ。黄表紙の作者。大田 南畝[なんぽ]に狂歌を、恋川春町に戯文を学んだとされる。 <終了>
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