2.コーヒー

2コーヒー絵

そんなに不味いコーヒーを飲んだのは初めてだった。

そしてこれから先も、こんなに不味いコーヒーを飲むことはもう絶対にないという絶対的な確信があった。コーヒーの方も「そうだよ。僕ほど不味いコーヒーには、人生で一回出会うかどうかだよ」と、人生への諦めを帯びたような口調で言っていた。それをはっきりと聞き取ることができた。

僕はこれからコーヒーを飲むたびに、どれだけこのコーヒーが不味かったかを思い知らされるだろう。それは本当に、正確に、この世で一番不味いコーヒーだった。

 

もちろん、不味いコーヒーなら幾度となく飲んできたつもりだった。しかしそれらはあくまで、形容することのできる不味さ達だったのだ。腐ったレモンのように酸味の向こう側に到達してしまっているだとか、親友の彼女に「彼が別れたいと思っている」という旨を伝えるための電話をかけた後より後味が悪いだとか、苦虫より苦いだとか、死ぬ直前に飲みたいと言って出されたとしても「不味いなあ」と言うだとか。

 

僕はその頃、就職を機に東京へ出てきたばかりで、文字通り右も左もわからない中、会社と自宅の行き帰りだけの生活を送っていた。だからこそ一番上の世界を知ろうという、一種の現実逃避を目的とした行動だったのだと思う。その日は春にしては寒すぎ、冬にしては優しすぎる日だった。

 

そのコーヒーを飲んだのは、六本木にある、控えめにいっても日本で10本の指に入るラグジュアリーホテルだった。ロビーは地上何十階だかにあり、とても良い匂いがした。それは出来立てほやほやの檜を削る、その行為そのものを香りに昇華させたような匂いだった。その左の空間には、黒と白を基調としたシックなラウンジが広がっている。まだ昇りきっていない太陽の、柔らかい光がその空間を包み込んでいた。

 

僕がその広大なラウンジの敷地に足を一歩踏み入れる二秒前にはウエイターが来て、僕を席に案内してくれた。ウエイターのエスコートは、差し込む光とシンクロするように柔らかかった。

 

一番安い1200円の「オリジナルブレンド」を注文した。軽食も頼もうとしたが、やめた。見栄をはるために来たんじゃない、見るために来たんだ。

 

「ブレンドコーヒー1つ」

「かしこまりました」

 

どこかで見たことのあるような顔だなと思ったが、すぐに地元の友達に似ているだけだと気づいた。東京の全てがここから遠隔操作されているのではと思わせるような眺めをなんとなく見渡していると、彼女は普段どんな喋り方をするんだろうという疑問的想像が僕の中に生まれ、やがて彼女はどこに住んでいるのだろうという想像的疑問へと、誰にも気付かれることなくトランスフォームした。

 

三ヶ月後、僕らは付き合うことになった。彼女の普段の喋り方は、僕の疑問的想像とほぼ一致していて、彼女の住んでいるところは、僕の想像的疑問とは全く違っていた。

 

彼女が休みの日には僕の家で、僕が休みの日には彼女の家で二人の時間を過ごした。二人とも家の中に居るのが好きで、たまに外へ出たとしても、DVDを借りに行くか、弁当を買いに行くくらいのだった。いつも僕が先に寝て、いつも彼女が先に起きた。どちらかというと、夜より朝によくセックスをした。

 

あのコーヒーは、彼女が淹れたらしかった。彼女はなぜかそれをよく覚えていた。

でも彼女の淹れるコーヒーはとても美味かった。休みの日に彼女の家に行き、僕だけに許されたそのコーヒーを飲むのが楽しみだった。

この話をすると彼女はいつも、「緊張しすぎて、味覚がおかしくなってたのよ」と言ってくる。僕は「絶対に違う、あれはこの世で一番不味いコーヒーだった」と言い返す。そして二人は笑う。

 

今僕は仕事の合間を、六本木の小さな喫茶店で過ごして居る。

彼女とは半年で別れたが、あれから10年経った今もコーヒーを飲むたびに思い知らされる。

どれだけあのコーヒーが不味かったか。そして、どれだけ彼女のことが好きだったか。

photo by J.K.Wang

 3.物干し竿 その1 に移動

 

One Comment

  1. Pingback: 1.新幹線 | WEBぱるマガジン

コメントを残す