14.実績で選ばれた将軍:井上貞衛

日露戦争において、黒木為禎大将のもとで後世に残る武勲を立て「花の梅沢旅団」と賞された梅沢道治少将は、平時、役立たずの老大佐として叱り飛ばされていました。

梅沢少将は部隊勤務が30年以上あり現場を良く知っていましたが、弁がたたなかったため官僚的な仕事は苦手でした。

それでも、日露戦争までの日本軍は小世帯であり、将軍への昇進コースが明文化していなかったため抜擢人事が行われています。

 

しかし、軍の拡大とともに学歴が重視されます。

薩長閥の人々が将軍などのポストを独占することへの反発からペーパーテストだけが昇進の基準となり、現場経験よりも海外留学や中央勤務が評価されるようになります。

地方での部隊勤務専門の将校と中央での幕僚勤務専門の将校に区分され、前者は芽が出ず、後者は栄達していきました。

 

陸軍はソ連の脅威に直面し続けていたため、実績による人事もみられます。

陛下より12回御嘉賞を受け取り「パラオ集団はまことに善く統率力徹底して立派に戦闘し復員も善く出来て満足に思う」と賞されたパラオ集団長の井上貞衛中将は陸軍大学を卒業していません。

机に座るのが苦手な軍人であり、平穏な時代でしたら一軍人で終わるはずでしたが、米ソの支援を受けた国民党の中国との戦いで頭角を現します。

陣頭指揮できる井上は誰よりも成果を挙げ「井上部隊の行くところ草木もなびく」という歌い文句が満州に響き、岡村寧次大将から「井上に任せておけば心配はない」と激賞されて将軍となります。

 

「人事の一部として、まことに恐るべきは、第一線に出されることが懲罰であるとされていたことである。軍人が第一線に行くことが懲罰とするようでは国軍が弱くなるのは当然である」(陸軍大佐 親泊朝省)

日本軍の将校は東京勤務を好み、第一線勤務を嫌がります。

このため井上にパラオ集団長という大役が回ってきます。

 

島における戦い方は「上陸する敵が海と陸に戦力が分離して弱点を形成する水際で敵と戦うべし」と教科書に書かれていましたが、実戦経験豊富な井上中将は、地下から地上の米軍と戦うことを考案します。

パラオ集団を視察した小畑大将は、陣地が持久戦を考慮した陣地であると批判し水際決戦に徹するよう指導しますが、井上は保身ではなく勝利を望みました。

 

米軍は1944年9月15日にペリリュー島へ、17日にはアンガウル島に上陸します。

パラオ本島からペリリュー島まで50km、アンガウル島は60kmと目と鼻の先でしたが、制海権を米軍が握っていたため両島は孤立無援で戦うことになります。

米海兵隊第1師団長ウィリアム少将は「こんな小さな島(南北9km、東西3km)の戦闘は2、3日で片付く」と公言し、瞬く間に上陸します。

しかし、水際決戦で敗れるとバンザイ突撃に移行していた従来の戦いと異なり、パラオ集団は上陸されてから粘りました。

米軍が期待するバンザイ突撃を行わず、2、3名による斬り込みを多用します。

日中は洞くつから狙撃し、夜間は2、3名で斬り込むというパラオ集団の戦い方に米軍は大きな損害を被ります。

 

「軍旗を処置したる後、おおむね3隊となり全員飛行場に斬りこむ覚悟なり」とバンザイ突撃を申し出る現場の声に井上は「断固、軍旗を奉じて「ペリリュー」の中央に健在するの道を選ぶは、これ更に有効に全戦局に寄与し得る」と死より苦しい持久戦を命じ続けます。

 

ペリリュー島は2ヶ月以上、アンガウル島も1ヶ月以上戦闘が継続し、米軍に1万人以上の死傷者を与えました。

「まだベリュリューは頑張っているか」は、大本営における朝の挨拶代わりにもなり、パラオ集団の戦い方が教科書となり、硫黄島、沖縄に踏襲されます。

 

ペリリュー島、硫黄島、沖縄の損害は米国の方針を転換させ、天皇制の容認を含む穏当な対日条件を引き出すことにつながりました。

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