15.学校の成績で選ばれた将軍
平家にあらずんば人にあらず、海軍兵学校出身者にあらずんば海軍軍人にあらずと、出身学校による差別が海軍では公然と行われていました。 一般大学出身者を「スペア」と称し、機関学校の出身者を「艦長にもなれず 司令官にもなれず みなにカマ焚きと呼ばれ 褒められもせず 問題にもされず」と馬鹿にしました。
井上成美大将は、海軍兵学校を2番/179人の成績で卒業します。 外国語が堪能であったため海外勤務が長く、海軍期待の逸材と目されていました。 しかし、機動部隊の指揮官として失敗を繰り返したため、山本五十六元帥から「戦争べた」と評され、第一線の指揮官から海軍兵学校校長に栄転します。
連合艦隊司令長官であった山本元帥は、骨相学で人を選ぼうとするなど非科学的な思考を採用する人物でした。 米国駐在が長い山本元帥は「やってみせ 言って聞かせて させてみて 褒めてやらねば 人は動かうじ」などの名言で衆望を集めます。 ですが、結果としては、戦争反対の米国世論を参戦にまとめ、慢心と情報漏えいで精兵を殺し、首相、陸軍、国民を騙し、面子を守るため南太平洋に軍を進めて餓死を引き起こし、先人が苦心惨憺して築いた大日本帝国を滅ぼします。 「海軍は無謀に艦隊を出し、非科学的に戦をして失敗した」(昭和天皇)
海軍の諸制度は英国海軍から踏襲します。 英国海軍は、将校は上流階級出身者に限られ、兵隊は食いつめ者、文字を書けない無頼の徒を集めて構成されていました。 このため、将校が艦上において乗員の殺生与奪の権を握り、ムチによって兵隊を動かします。 日本海軍の兵隊は無頼の徒でなく、将校は貴族でも船乗りでもなく「兵学校出身者にあらずんば海軍軍人にあらず」と驕り高ぶった官僚でした。 このため、現場の兵隊は強いが将校は弱く「スタンピング ネービー(印鑑海軍)、ベーパー ネービー(書類海軍)」(英国 センピル大佐)と馬鹿にされています。
米軍は現場に人事権があったため柔軟で前線の実情にあう大胆な人事を行います。 太平洋艦隊司令として海軍を再建したニミッツ元帥は、ハルゼーなどの有能な海軍指揮官の抜擢することができました。 しかし、日本海軍は東京の海軍省にしか人事権がありません。 現場から離れた場所で、実績ではなく学校の成績に基づいた人事を行ったことが日米の帰趨を分けることにつながります。
兵学校出身者にも軍人はいます。 田中頼三中将は無口でしたが、生粋の船乗りであり、上司に対しても意見する頑固な軍人でした。 1942年ミッドウェー海戦敗退後の最後の勝利といわれるルンガ沖海戦において米軍に完勝し、米国から不屈の猛将といわれます。 しかし、海軍の伝統である指揮官先頭でなかったことが責められ、結果よりも教科書どおりであることを重視する海軍上層部に左遷されます。
木村昌福中将は、死後ではなく生きたまま2階級昇進した例外的な上級将校でした。 1913年に海軍兵学校を120人中、下から10番以内の成績で卒業、無口であり、しゃべるのが苦手、海軍兵学校の成績も悪かったため中央勤務も海外留学もなく現場一筋で過ごします。 45歳で大佐に昇進、50歳で太平洋戦争を迎え、空母ホーネットの撃沈、キスカ島の撤収、ミンドロ島の夜襲など輸送船を沈没させ日本海軍の組織的戦闘における最後の勝利を飾っています。
有事の指揮官は実績を考慮しなければならないのではないでしょうか。
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