30.道成寺の見所⑧―乱拍子 アイの居眠りにつられる?
・ここが居眠りの関門? 舞台上でも眠気との闘い?乱拍子は鐘入りと並ぶ、道成寺の見どころで、シテと小鼓とがともに最大のエネルギーを燃焼して織り成す緊迫の極致、能の魅力の真髄だ…… と讃えられる理由は、ここまでいろいろと説明してきたので、すでに頭では十分に理解した。
ああ、それなのに! 乱拍子の開始からほどなく、舞台に凝らした目を目蓋が覆い始めるのはなぜなのか。
シテの動きは爪先や踵の上げ下げと足拍子という地味な動きだし、長い間合いをはさみつつ同じ型を13段も繰り返す、30分前後の長丁場だ。 じっと見入っていたはずが、いつの間にか舟を漕いでいたのにハッと気づき、ふと周りを見回せばあっちでもこっちでも、中には寝息を立てている人も……。
しかも眠いのは観客だけではないようで、なんと舞台の上でも? 前回(第29回)ご紹介した山中迓晶(がしょう)師は、こんなふうに話されたと記憶している。
そう言われて舞台上の先生方を観察すると、確かに眠そうなご様子の方もいらっしゃる。 そもそも「アイ(寺男)が居眠りをした隙を伺って、女は鐘に近づき鐘入りする」という能の展開なのだから、「この乱拍子は皆を眠らせるものではないか」という山中師の実感は、その意味で的を射ている。
*能の真髄を表現する究極の演技 しかしこの退屈な演技が「能の真髄を体現している」と、こうまで持ち上げられるのは一体なぜか――。 喜多流の塩津哲生師はNHKの番組(☆)の中で、乱拍子についてこんなふうに語っている。
「動かないときの何か」というのは、世阿弥の言う「せぬ暇が面白い」(『花鏡』)という教えを言っているのだろう。 舞を舞い止むところ、謡を謡い止んだ暇、そうした「間」において「油断なく心をつなぐ性根」が大切だと世阿弥は言っている。 その充実した気合いが自ずと外に匂い出て、観る者に感銘を与えるのだと。 それこそが能の魅力の真髄であり、その「能の魅力の本質」を取り出して極限まで精錬したものが、道成寺の乱拍子なのである。 ・観る側の役割とはいえ、舞台上でいかに白熱した演技が展開されても、「猫に小判」ではどうにもならない。 やはり観る側にも「極度の集中力と研ぎ澄まされた感性」が要求されるわけで、持てる感性をフル回転して、言わば自らスピーカーやスクリーンとなり、舞台の演技が表現するものを豊かに映し出して味わう必要がある。
しかもその際、「一種の壮絶さ、それも武道的、スポーツ的な緊張感や間の面白さとか儀式的な厳粛さではなく、一面の桜につつまれた、艶麗にして孤独な女の姿が浮かび上がり、何ごとか訴えかけて舞う凄愴感が漂うようでありたい」(☆☆)との専門家のアドバイスである。 あまり決めてかかるのもどうかと思うが、ただ「春の夕暮れ来てみれば、入相の鐘に花ぞ散りける、花ぞ散りける、花ぞ散りける」という情景は、おっしゃる通り心に留めておきたい。
・「名づけたりや」で乱拍子が終わり…… 乱拍子も「中ノ段」(→第26回)を経て後半に入ると、いわゆる「乱拍子謡」が謡い込まれ、鼓の間合いも縮まってくる。 舞台上のアイは深い眠りに入るところだが、こちら(客席)はさらに緊張感を高め(あるいは眠気を払って)、じっくりと鐘入りを待ち受けよう。
シテの乱拍子謡は切れ切れに「道成の卿。承り。 初めて伽藍。 たちばなの。 道成興行の寺なればとて。道成寺とは。名づけたりや」と。 最後の「名づけたりや」で乱拍子は完了。 次に地謡が「山寺のや」と短い一句を謡うと急ノ舞へ、ここから舞台は急展開する。
☆『にっぽんの芸能 若き能楽師 道成寺に挑む 塩津圭介』(NHK、2015年12月18日放送。塩津哲生師は、塩津圭介師の父) ☆☆羽田昶「乱拍子、そして急ノ舞」(『別冊太陽79 能道成寺』1992年)
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