8.「僧」と「女」という葛藤―「僧」を捨てれば解決!

・事件の根源は「僧」と「女」

迫る女に、逃げる男、これが悲劇の構図です。

何で逃げるかと言えば、男は「僧」であり、「女犯」を禁じられているため。

もちろん、俗世の男女であっても好き嫌いがあるので、女を嫌って逃げ出す男もいるでしょう。

ただし賢学の場合、花姫に一目惚れで実は相思相愛の仲だし、「女犯」という葛藤さえなければ逃げ出すわけもなく、また幼い頃の彼女を傷つけることもなかったはず。

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・ちなみに今昔物語の顛末は…

それにしても「日高川草子」は、前半の経緯が妙にこみ入っていますよね。

実はこの筋書き、今昔物語の「湛慶阿闍梨、還俗して高向公輔と為れること」という話をパクっているのです。

途中までの筋はほとんど同じで、湛慶は、夢の告げに出てきた10歳ばかりの女の子の首を刺して逃げます。

その後、行者として功を積んだある日、貴人の病気の祈祷に出向いて、そこに仕える女に一目惚れして契る。

それで首の傷に気づき、件の女と知るわけです。

 

ただし、ここからが賢学とは逆で、湛慶は泣く泣く過去の所業を女に告げると、還俗して女と夫婦となり、長く連れ添います。

「僧」を捨ててしまえば葛藤も消えて、その後の悲劇も起こりません。

まあ、それじゃ「道成寺」にならないので……。

 

・賢学については自業自得としか

同じ取り殺されるにしても、道成寺縁起の「僧」には同情を禁じ得ませんが、賢学については正直、自業自得としか言いようがない。

そもそも「女犯」を予防するために、5歳の女の子を殺そうだなんて! 「殺生戒」の方がよっぽど罪が重いでしょうに。

それでいて再び巡り会うと一目惚れ。女が無理に迫ったわけじゃなく、自分から契ったのですから、もう言い訳の余地なし。

そのうえ因縁の女と知るや、怖くなって修行に出るだなんて、あんまり身勝手。花姫が怒るのも無理はない。

 

・道成寺は観音で、日高川草子は念仏

…という、世間の追い風を受けてかどうか。

絵巻の花姫は、蛇になってもあまり悲壮感がないですね。

却ってうきうきと賢学を追いかけ、鐘を巻いている表情なんて「つかまえた!」とばかりに嬉しそうだし、最後はしっかり賢学をつかんでいます。

また「川」を中心にすると寺から離れるせいか、説教色が薄く、娯楽的です。

 

だから道成寺縁起の場合、最後に法華経の功徳で2人は救われて、「観音名号を33べん唱えましょう」(道成寺のご本尊は十一面観音なのです)としっかり教訓、ここが大事なわけです。

が、日高川草子では、僧たちが念仏を唱えたとあるだけで、成仏したのかどうかわからない。

そもそも寺の名前もわかりませんし、取りあえず念仏でしめくくったって感じです。

 

*参考文献
『今昔物語』第31巻

 

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