9.能「道成寺」では「川」の存在感ってどう?

・あくまで「鐘」が焦点ですけど……

能「道成寺」は、僧が焼き殺された事件そのものではなく、後日譚として話が展開するので、女が川渡りで蛇になったのも過去のこと。

くだんの女は美しい白拍子として現れ出で、蛇体に変身する場は「川」ではなくて、「鐘」の中です。この点でも「鐘」は重要です。

 

能の舞台で「川」が出てくるのは、ワキの語りと、後場の謡のなかだけで、さほど強調されるものではありません。

道具立ての中心はもちろん「鐘」で、80キロの大鐘を吊ることに始まり、落としたり、再び吊り上げたり、最後にこれを降ろして持ち去っておしまい。

最初から最後まで、鐘とともに演じられるのが道成寺です。

 

・ワキの語りにおける「川」の存在感

とはいえ、ワキの語りにおいて、川渡りで女が蛇になる段は聞く者の想像力をかき立てます。

文字にしてしまうと、実際の語りの迫力は伝わらないのが残念ですが、観世流の本ではこうなっています。

 

「さてかの女は山伏を。遁すまじとて追つかくる。折節日高川乃水以つての外に増りしかば。川の上下を彼方此方へ走り廻りしが。一念の毒蛇となつて。川を易々と泳ぎ越しこの寺に来たり」

ここがもし、法華験記や今昔物語のように、ただ部屋に籠もって蛇になるのであれば、追い迫る恐怖と緊迫感、そして女の必死な一念は表現し切れないと思います。

だいたい最初から蛇の姿で追いかけるのでは、凄まじすぎて美も哀れもないですよね。

第9回

・蛇は「川」の深淵へと消えます

そしてこの顛末の最後、道成寺縁起では「蛇はもと来た方へ去る」わけで、再び川は出てきませんが、能「道成寺」では、僧たちに祈り伏せられた蛇は「日高乃川波深淵に飛んでぞ入りにける」というわけで、川に飛び込み、姿を消して終わります。

ズルズルともと来た方へ這って行くより、ひと思いに川の深みへザブンと飛び込むほうがスピード感に富んで絵になります。

また蛇体は成仏したとも、死に果てたとも語られないし、人の手の及ばない水の底に潜伏して、秘かに次のチャンスを待つような印象があり、暗示的な余韻が残るのです。

能においては確かに「鐘」が中心ですが、「川」も効果的に採り入れられ、欠かせない要素のひとつとして存在感を示しています。

 

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