10.能「道成寺」の作者はだれ?

・そもそも著作権なんて意識のない時代で

能「道成寺」が道成寺縁起を本説としているのは、まず間違いのないところ。

ですが、その道成寺縁起をひもといてみれば、道成寺と日高川を支点として尾ひれがついたり、転変したり……。

もともと説話や伝承ってのは作者がわかりませんから、それに尾ひれを付けたのも誰なのかサッパリです。

 

能の作者にしても確実にわかるものは限られる。

けれど伝説とは違って、やはり作者が意識されているので、世阿弥や息子元能の伝書にも断片的に記されてます。

その元能が自著『世子六十以後申楽談議』に「鵜飼、柏崎などは、榎並の左衛門五郎の作だけど、いずれも世子(世阿弥)が悪いところを除き、よいことを加えたので、みな世子の作なのだ」などと書いていますから、当時の意識はそんなふうだったんですね。

 

その後、桃山や江戸時代になると、各作品について作者を記したものが作られますが、古い曲は適当に世阿弥ってことにしていたりでなにしろネームバリューがありますから結構マユツバが多いのです。

 

・道成寺の作者は?

それで「道成寺」の作者はどうなっているか、ですね。

残念ながら不明です。

 

一応記録としては、『自家伝抄』(16世紀初頭に書かれた金春流系の伝書)に世阿弥作、『二百十番謡目録』(18世紀半ばに観世太夫が謡本を新編集した折のもの)には観阿弥作と記されています。

が、いずれも後世の作者付けなので信用できないし、世阿弥や元能の伝書にはふれられていないので、不明というのが適切です。

第10回

・観世小次郎信光って、世阿弥の何?

ただ「鐘巻」という、「道成寺」によく似た曲があって――すでに廃曲(上演されない曲)になっています――この「鐘巻」を洗練したのが「道成寺」だと言われています。

つまり「道成寺」の原曲ですね。その作者については、観世小次郎信光ってことになっています。

 

この小次郎信光は、音阿弥(世阿弥の甥で、三代目観世大夫)の七男。

大鼓を専門としましたが、作能の才があっていくつも作っています。

例えば「船弁慶」とか「紅葉狩」など、今でも人気のある曲です。

 

とはいえ、「鐘巻」の作者っていう伝承は、まずガセネタだと思います。

というのは、この信光の嫡男(弥次郎長俊)の談話に基づいて書かれた『能本作者注文』(1524年)に、「鐘巻」は「作者不分明能」と書かれているのですから。

自分の父の作品を「作者不分明」とするはずがないですよね。

 

・そんなら、だれが作ったのか?

なので原曲とされる「鐘巻」も含めて、作者は不明。最上級の格を持ちながら、その作者がまったく不明とは、実に不思議な曲です。

 

ひとつ思うのは、弥次郎長俊が「鐘巻」を作者不明としたのは、父信光からも聞いていないってことでしょう。

信光(1450―1516年)も作者を知らなかったとすると、彼が活躍する以前から存在したとも考えられます。

となると、世阿弥や音阿弥の時代に作られた曲なのかもしれません。

ただし世阿弥や元能が伝書に取り上げていないところを見ると、当時は際立った演出ではなかったのか、あるいは世阿弥の後、音阿弥世代に作られたのか……。

 

このあたりを頭に入れつつ、次回はその「鐘巻」って能を見てみましょう。

 

*参考文献
観世七郎元能「世子六十以後申楽談議」(能勢朝次『世阿弥十六部集評釈』所収)。
観世弥次郎長俊談「能本作者注文」(吉田東伍校註『能楽古典 禅竹集』所収)。
大成版観世流「道成寺」。

 

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