11.古能「鐘巻」との比較―「道成寺」はストーリーを捨てた?

・「鐘巻」とは?

「鐘巻」というのは「道成寺」の原曲とされる古い能で、すでに江戸時代には廃曲となっている。

だからほとんど上演されることはないのだけど、残っている謡本を見る限り、ストーリーとしては「道成寺」とほぼ重なっている。

ただ舞台演出としては「道成寺」のほうがうんと洗練されているので、やっぱり観客受けがよかったのだろう、「鐘巻」は次第に演じられなくなり、「道成寺」に淘汰される形で廃曲となった。

 

ちなみに、両方が演じられていた時期(室町後期から安土桃山)、丹波猿楽の梅若大夫が「鐘巻」を演じた記録があり、当時「丹波鐘巻」という呼び方もされていたようだ(★)。

が、これだけで「鐘巻」の作者を梅若大夫、あるいは丹波猿楽ゆかりの人とは決められない。

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・「鐘巻」と「道成寺」との違い

「道成寺」のほうが洗練されている、とは具体的にどういうことかというと、次の3つの相違点に注目するとよくわかる。

 

1つ目は、白拍子の姿で現れた女が境内に入ろうとして、「女人禁制」と能力(寺男)に止められる場面。

「鐘巻」では、女が能力と問答して、境内に入れてくれるよう粘り強く頼み、能力は僧侶に相談した上でようやく許可する。

冒頭で能力は「女人禁制」と固く言い渡されているのだから、この展開はしごく順当といえる。

ところが「道成寺」の能力は、白拍子が「鐘の供養に舞いたい」と言うのを聞くと、あっさり独断で境内に入れてしまう。

ええ、それでいいんですかい?って感じだけど、取り敢えず話が早いので舞台演出としてはテンポがいい。

 

2つ目は、白拍子の舞の内容。「鐘巻」では舞いながら、「道成寺建立の縁起」をじっくり謡って聞かせるのだが、「道成寺」ではその謡のほとんどを省略。

ただ切れ切れに「道成の卿うけたまわり、始めて伽藍。

たちばなの、道成興行の寺なればとて、道成寺とは名づけたりや」としか謡わない。

縁起のほとんどを切り捨てて、無言のうちに小鼓との掛け合いで、乱拍子という特殊な舞を舞うのだ。

この思いっ切り説明を脱して、乱拍子の緊迫感にのみ集中する舞台効果は画期的で、見所として大きな効果をあげている。

 

3つ目は、結末の部分。「道成寺」では結末の展開もあっさりで、僧侶に祈り伏せられた蛇体がジャボンと日高川に飛び込んで一件落着。

要するに追っ払ったってだけのこと。

その点「鐘巻」はきっちり結末をつけていて、ラストの謡いは「日高川の川波、深淵に帰ると見えつるが、またこの鐘をつくづくと、またこの鐘をつくづくと返り見、執心は消えてぞ失せにける」となって、女は成仏した様子。

ことにラストシーン、女がつくづくと鐘を返り見る姿には哀れな余韻が漂い、「こっちの方がいいよね」って声もあるほどで、確かに話として収まっている。

ただ結末のつかない「道成寺」のラストをエンドレスととれば、さらなる後日譚を期待させるってとこもあるけど。

 

・「鐘巻」には乱拍子なし

この3つの違いの中で最も重要なのは2つめの乱拍子。

「道成寺」で舞われる乱拍子は非常に特殊なもので、小鼓とシテが一騎打ちの様相でぶつかり合い、独特の緊迫を醸し出す。

長々と「道成寺縁起」を謡う「鐘巻」の演出では、とてもじゃないけどこの緊迫感は望めない。

だから「鐘巻」では乱拍子は舞われなかったか、たとえ舞われたとして「道成寺」とはまったく違う、もっと軽々としたものだったはず。

「道成寺」ではこの乱拍子が、鐘入りとともに目玉となっているので、それがない「鐘巻」という能は、舞台としてはかなり違ったものと言える。

 

・ストーリーを捨てた「道成寺」

こうして比較してみると、「鐘巻」が「道成寺」の原曲と言われる意味がよくわかる。

「鐘巻」の舞台展開には破綻がない。

能力はちゃんと僧侶に相談してから女を入れるし、女が謡う道成寺建立の縁起も筋が通ってる、でもって最後は女が成仏して決着するわけで、これがまあ通常の能のストーリーなのだ。

そのストーリーを捨て、展開のスピード感を高めて乱拍子を加え、言葉を超えた技と気迫で何ものかを表現する。

そういう進化を遂げて普通じゃない能となった、やっぱり「道成寺」は、特別な能なのであります。

 

*参考文献
『日本古典文学大系41 謡曲集下』岩波書店
★梅原猛『梅原猛の授業 能を観る』朝日新聞出版

 

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