14.「鐘巻」から「道成寺」へ、原動力は世阿弥の孫 !?

・まず「鐘巻」の成立は?

「道成寺」の作者や成立年代は不明となっているが、その原曲が「鐘巻」だとすると、「鐘巻」の成立はいつなのか。

資料をひもといてみると、「鐘巻」が初めて記録上にあらわれるのは、第10回に紹介した『能本作者註文』(1524年)。

ここに「作者不明の能」として挙げられているので、少なくともこの時期以前に成立したことは確か。

この『能本作者註文』は、作者付(能本作者の記録)としては最も古いもので、それ以前については世阿弥の伝書『五音』や、元能(世阿弥の息子)の『申楽談議』の中で多少ふれられているだけ。

で、残念ながらそのいずれも「鐘巻」にはふれていない。

 

ただし、『幸正能口伝書』(1611年)という幸家(小鼓方の家)に伝わる伝書と、同じく幸家に伝わる「幸正能の書状」(1606年)に、「道成寺」の乱拍子に関するすこぶる興味深い記述があって(★1)、そこから「鐘巻」の成立年代をある程度推測できる。

 

・「道成寺」の乱拍子の作者は世阿弥の孫!?

というのは、「道成寺」の乱拍子は小鼓の習いとしても特別のあつかいになっていて、だから当然、幸家の伝書でも言及されているのだが、そこに「この乱拍子は金春宗筠が多武峰の能に踏み出されたもの」と書かれているのだ。

金春宗筠(そういん)(1432―80年)というのは、金春流中興の祖である金春禅竹の嫡男。

金春禅竹は世阿弥を師と仰いでいて、世阿弥の娘を妻としているのだ。

だからその息子の宗筠は世阿弥の孫に当たる人物。

でもって多武峰の能とは、多武峰談山神社の祭礼に奉納する能で、毎年新作を演じることになっている。

その多武峰の能で、世阿弥の孫に当たる宗筠が、初めて道成寺の乱拍子を演じたと言っているわけで、恐らく「鐘巻」に乱拍子を加えて改作し、新作能として演じたものだろう。

 

すると「鐘巻」の成立はそれ以前になるので、恐らく父禅竹(1405―70年頃)や、禅竹と同世代の世阿弥の息子たちの時代にはあっただろうし、あるいは世阿弥(1363―1443年頃)の時代にもすでに演じられていたかもしれない。

また宗筠が乱拍子を工夫したのであれば、「鐘巻」から「道成寺」への脱皮は彼によると言ってもいいはず。

現在でも「道成寺」の本家は金春流と言われているが、その理由はここにあるのだろう。

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・「道成寺」の舞台で、鐘の綱が切れた!

ついでに紹介すると、「道成寺」について面白い記録がもう一つある。

安土桃山時代の公家、勧修寺晴豊の日記(『晴豊公記』)の1590年3月26日の記事で(★2)、日吉太夫が院前で演じた13番の能のうち、4番目の道成寺の演能で舞台の吊り鐘の綱が切れた、というのだ。

そして「前々より道成寺には怪我ある也」とも書いている(★3)。

 

「道成寺」の眼目は、何と言っても乱拍子と鐘入りだろう。

黒川能や復曲された「鐘巻」では、「道成寺」と同様に舞台に大鐘を吊って、鐘入りをする演出になっている。

が、あれだけ大がかりな舞台装置を世阿弥の頃から備えていたとは考えにくい。

「昔は袖を引きかづいて鐘入りを象徴することもあった」という記録もあるようだし(★3)、能の演出としてはむしろこちらのほうが本筋のようにも思える。

でも、だんだんとそれでは満足できなくなって、鐘を吊る演出が工夫されたのだろうし、鐘を落としたときのドスンというリアルな迫力を追求して、鐘はじょじょに重たいものになったのだろう。

綱が切れたり、役者が怪我をしたりするというのだから、この頃すでに何十キロかの重さ(現在は70キロ)になっていたはずだ。

 

ちなみに1590年っていうと豊臣秀吉が全国統一を果たした年、この10年後には関ヶ原の戦いを経て江戸開幕という時代だ。

で、晴豊公記のいう「前々より道成寺には怪我ある也」というのは何年ぐらい前を指しているのか。

本能寺の変は1582年だから、例えばこの「前々」が10年前なら織田信長もまだ健在。

「人生50年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり」の謡で知られるこの人も能を愛好した。

しかも派手で新しいもの好きだったようだから、大鐘を落とす演出を見れば、さぞ喜んだのではなかろうか。

 

*参考文献
★1 『幸正能口伝書』わんや書店
★2 表章『観世流史参究』檜書店
★3 堂本正樹「『鐘巻』と『道成寺』―龍と蛇・被きの女ふたり」(『別冊太陽 道成寺』)

 

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