17.女はなぜ鐘に執着するのか―そこに垣間見る能「道成寺」成り立ち

・男そっちのけで「鐘の音」に執着する矛盾

能「鐘巻」や「道成寺」は、鐘を巡る動きから考えると「道成寺縁起」より山伏神楽の「鐘巻」を下敷きにしたと見るほうがしっくりくる、と前回述べた。

その流れを思わせる節が、能「鐘巻」のシテ(女)のセリフにある。

 

「恨めしやさしも思ひの鐘の音を、尽くさで我に帰れとや」(★)

 

能「鐘巻」の後場で、女が落とした鐘が僧侶たちの祈りによって引き揚げられ、その下から蛇身となってうずくまる女が現れたとき、女の口から出るセリフだ。

これはそのまま、山伏神楽の「鐘巻」の女のセリフとしてピッタリくる。

鐘の音を聞いて悟りを得たいと願い、鐘の緒を押した女が、鐘の音を消されたうえ鐘の中に突き込められてしまった、その恨み言と考えればピッタリくる。

一方「道成寺縁起」の流れで考えると、肝心の「男」をそっちのけにして「鐘の音」にこだわるこのセリフは筋が通らない。

能では女の鐘に対する執心について、ワキ(道成寺の僧侶)が「男を焼き殺した時の執心が残って、この鐘に悪さをしているのだ」と説明しているが、百歩譲ってそうだとしても、「鐘」そのものではなく、「鐘の音」を問題にするのは何とも唐突だ。

ちなみに能「道成寺」ではこの女のセリフは省かれている。

…というか、「道成寺」の場合、後ジテ(蛇体となった女)には一切セリフがないのだ。

無言のまま、ひたすら杖を振り上げて僧侶と戦う舞働き演ずるのみ。

およそ後シテにセリフや謡がないような曲は、他にはないだろう。

 

・「僧」から「鐘」へのすり替え

つまり能「道成寺」は、「道成寺縁起」というドラマチックな説話を「女の鐘入り」という効果的な演出で実現した作品であり、本来は若僧が鐘に入るところを、女が鐘入りする筋立てに変えたところが工夫のしどころだった、ということではないか。

また、「女の鐘入り」の先例としては山伏神楽の「鐘巻」があり、その筋書きを踏襲するために、能「道成寺」は「道成寺縁起」の後日譚として創られた。

後日譚とすることで、話の展開が「道成寺縁起」から山伏神楽「鐘巻」へとすり替えられ、このすり替えの結果として、女の執着も「僧」から「鐘」へとすり替わることになった。

そんなふうに考えてみると、この能に漂う不可解さが解消できると思うのだが、どうだろう。

第17回 鐘第17回 僧侶

・マジックの仕掛けはワキの語り

それで改めて能「道成寺」の展開を見てみると、この巧妙なすり替えマジックの仕掛けはワキの語りにあることに気づく。

女の鐘入りの後、落ちた鐘を囲んで、ワキの僧侶が「こんなこともあろうかと思って、固く女人禁制を申しつけたのだ。

この鐘についての言われをご存知か。

ご存じなくば語って聞かせよう」というわけで、「道成寺縁起」の顛末を懇ろに語ったうえで、女が鐘に執着する理由を次のように説明する。

 

「言語道断。かかる恐ろしき御物語こそ候はね。その時の女の執心残って、又この鐘に障礙(しょうげ)をなすと存じ候」

 

道成寺に逃げ込んだ若僧は鐘の内に隠れ、大蛇となって追って来た女は、それと察して鐘をぐるぐる巻きにした上で火炎を吐いて中の男を焼き殺したので、「その時の女の執心が残って、この鐘に執着するようになったのだ」と。

この語りを転換点として「道成寺縁起」から山伏神楽「鐘巻」へと、巧みにスイッチされるのだ。

ことに能「道成寺」の場合、原曲とされる「鐘巻」では、前ジテが鐘の前で舞ながら懇ろに「道成寺縁起」を語るところを大幅に省略して、ほとんど無言に近い形の乱拍子に置き替えている。

そのため道成寺縁起の経緯も、女が鐘に執着する理由も、すべての説明がこのワキ語りに任された形だ。

言わばこの語りは能「道成寺」を成り立たせる「要」であり、これがなければ「道成寺」という能は訳の分からないものになってしまう。

 

・執心の本質が変化している

とはいえ、ワキの語りを素直に聞いて、能「道成寺」の女が鐘に執着する理由に納得したとしても、この「男」から「鐘」へのすり替えによって、女の執心の本質が大きく変化するのは否めない。

今や女は、男そっちのけで空っぽの鐘に執着して障礙をなし、意地になって僧侶に空しい戦いを挑んでいる。

なので、よしんば勝ったところで得られるものは恋とはほど遠いシロモノ、ですよね。

そもそもこのエッセイ「道成寺のなぞ」の出発点は、能「道成寺」を「乙女の恋の物語」とする見方(→第3回)に違和感を覚えたことにあったんだけど、やっぱり「乙女の恋の物語」じゃないってことが、どうやら見えてきましたね。

 

★『日本古典文学大系4 謡曲集下』岩波書店

 

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